Gに情が湧く  ~同情と恐怖について~

蒸し暑い深夜、わき腹あたりにサリサリと何かが動いているのを感じ、目が覚めた。もしかして!と急いで電気を点けたところ、やはり黒光りする奴の姿が。

急いで新聞を丸めて退治。

 

近所の通りや玄関付近でGを見かけていたので警戒せねばと思っていた矢先の出来事だったので、対策が遅れたことが悔やまれます。

 

 

さて、今回のゴキブリ騒動での私の感情の動きを振り返ってみましょう。自分の感情の変化を省みることはここ一年のマイブームなのです。

 

 

まず、ごきぶり発見時。うわあ、やっぱりお前か、、、というショックと、「早く退治せねば!」という気概に駆られます。

丸めた新聞ソード片手にGと対峙した時、「一発で確実に仕留めるぞ!!」という野生的な意志に燃えていました。Gが私に向かって猛ダッシュしてきたり、飛んできたらどうしようという恐怖はあったものの、ゴキブリ退治をすることに迷いはありません。

 

そんなこんなで、パッと見た感じ奴は死んだと思える位の瀕死レベルにまで追いやることに成功しました。しかし、そこですぐに回収!というわけにはいきません。念には念を入れよ。Gは実は死んだふりをしていて、奴を処理するために新聞紙ソードを手放した丸腰の私に、襲い掛かってくるかもしれません。

 

ここで、先ほどまでのGを追いかけている時のテンションが維持されていたならば、私は容赦なく最後の一撃を下していたところでしょう。しかし、私はそうするのをためらいました。

 

瀕死のGに情が湧いていたのです。

もう一発振り下ろして、トドメをさそうという心意気はもうありませんでした。

結局私は、新聞ソード片手に瀕死っぽいゴキブリくんに厳戒な注意を払いつつ、湯沸かし器をセットし、熱湯をかけることで、なんとかやっつけることに成功しました。

 

なぜ戦闘モードから一転、同情が湧いたのでしょう。この急な気持ちの変化は何なのだろう。

 

戦闘モードというのはGに対する恐怖の裏返しと言えます。戦闘モードはこの恐怖感によって引き起こされたのでしょう。戦闘モードが恐怖を生み出したとは考えられません。

戦闘モードは恐怖が原因である。

 

ゴキブリが瀕死になった時になぜ、ちょっと前までの戦闘モードのノリで叩き潰すことができなかったのだろう。なぜ恐怖は一気に同情に変化したのだろう。

パッと思いつく理由は、Gが弱っていてこちらに危害を加える可能性がかなり下がったからというところでしょうか。それなら、Gに手当を施そうとしてもよかったのではないでしょうか。私は熱湯をかけてトドメを刺し、殺しました。つまり、恐怖は全く失われていないのです。

恐怖はそのままに同情心が現れてきたみたいです。そこで、恐怖と同情は実は同じものなのではないかという考えが浮上します。

 

もしかすると、恐怖と同情は、水(液体)と水蒸気の関係に似ているのかもしれません。一定の量の水が熱せられると気化する。水は減り、水蒸気が生まれる。

冷めると水蒸気が水へと液化する。結果水蒸気は減り、水が増える。

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つまりのようなものですが、ここで強調したいのは恐怖と同情は水と水蒸気のように、姿は違えど同じものであるというです。

同情というものは、恐怖を抱くことと隣り合わせなのではないでしょうか。安全地帯が揺らいだ時、一瞬にして恐怖へと転じる同情。

 

もう一歩進んでみましょう。水と水蒸気はどちらも同じ水H2Oからできていると思うのですが、恐怖と同情の共通点は何でしょうか。先のゴキブリの例から考えてみます。「逃さず叩いてやるぞ!」という時と「死にかけてかわいそう」とトドメを刺すのをためらうのは全く別の正反対のように思えます。しかし、そこには大前提が存在します。それは「ゴキブリに触りたくない!!!」ということです。ゴキブリ退治に燃えている私も、こちらに突進してきたらどうしようという恐怖がありましたし、瀕死のゴキブリへの最後の一撃をためらっても、ゴキブリを介抱しようなんて1ミクロンも思いません。

恐怖にも同情にも、関わりたくない気持ちが根底にあるようです。

「同情するなら金をくれ」という超有名な言葉がありますが、かわいそうだと言いつつも絶対に近づこうとしない、関わろうとしない同情への痛切な批判だと捉えることもできそうです。