分からなさについて

無知な私が知ったかぶりして、むつかしそうな本を読み通せるのは、むつかしい箇所、読んでいてよく分からなかった箇所を読み流しているからである(疲れているときは読み飛ばすことも多々ある)。全体を読めば分かってくるのではないかという期待も込めつつ、読み流すのである。(一応、少しは立ち止まって自分なりにその文の意味について考える努力はしているつもり。)実際、続きを読むことで、あの文はこういう事を言いたかったのかと納得することもある。しかし、全部読み終えても分からないままの部分も間違いなくある。


私のその本への理解は、分かった部分だけをつなぎ合わせた(分からないところが抜け落ちた)ちぐはぐなものだ。

分かりそうで分からない、みたいなところは、「結局あれはなんだったんだろう?」と疑問として残ることも(小説とか特に)あるが、もうサッパリ訳が分からない!お手上げ!な部分は、どんな文章だったかすらよく覚えていない。記憶から抜け落ちていく。

だからこそ、サッパリ分からないような文は少し意識して読みたいと思う。*1

 

 

私が何かが分からないという時、それは、その議論の流れに入れていないということを表すのではないか。

西田幾多郎の本をぼちぼち読んでおしゃべりする、みたいな授業に途中から参加したことがある。最初は話を聞くのでせいいっぱいだったが、少しずつ何について話しているか、分かってきた。

そんな時、先生と最初から参加していた人から「授業どうだい?」と聞かれて、「なんとなく分かってきました!」と言ったら、「僕はどんどん分からなくなっていくけどね(笑)」と言われた。それに続けて、「明確には分かるなんて嘘っぱちだ!分からないことこそ素晴らしい!」みたいなことを言われた。

私とその人とで何が違ったんだろう。 

確かに、何かを知れば知るほど、話し合えば話し合うほど、分からなくなっていく感覚というのは私も経験したことがある。

知れば知るほど、話し合えば話し合うほど分からなくなるときの「わからなさ」というのは何かを知っているとか、何かしらの流れの中にその人がいることが前提にあり、その流れに乗れない「分からなさ」とは、別物なんじゃないか。

「わからなさ」にも色々種類がある*2のだなあ。

 

以下、イヴ・コゾフスキー・セジウィックの「クローゼットの認識論」からの引用。

(クローゼットの認識論、読み始めたばっかりだけどむつかしくて読み流しまくり、傷つきまくりです😇)

(無知に関してセジウィックはPrivilege of unknowing なる文章を書いているらしい。気になる。)

これは構造的には、無知を原初の受動的無垢と見て、よりはっきり感傷的に特権化することと、危険なまでに近い。

 

無知がある一つの知識についての無知である限りーーー言うまでもなく、その知識自体が別な真実の制度においては、真実と見られたり虚偽と見られたりし得るのだがーーーこれら様々な無知は、原始の暗闇の断片であることなどからは程遠く、特定の知識に応じ、その特定の知識によって生産され、特定の真実の制度の一部として流通するものなのだ。

*1:

RAMびさんが前に、読書の挫折体験を傷と表現していたことをなんとなく思い出した。以下、ツイッターから引用

”読み損ねる、挫折としての読書、それ自体が経験であり、理解_無理解を越えた傷として記される。”

*2:種類があるというのは、それにある程度傾向があって、大きな分類ができるみたいな意味を含んでるなあ。