砂浜の足跡はまもなく消える。慎重に足跡を消しながら生きようとしてきたはずなのに、消すために払った砂が体に堆積し続けている。潮香を含んだ重たい砂。答えられるはずのない質問に答え続けていたら、気づけば入り組んだ嘘になり、積もりに積もったそれは時間を経て凝固し、私とは切り離せないものになってしまっていた。

誰だってそうだ、言葉とはそういうものだと言われるけど、堆積した嘘に緊張し続ける生はよくあることか。みんなそんなふうに生きてるとはあまり思えない。人には人の苦悩と言い聞かせる。

××××、死の花。

病院の敷地で××××を見つけた。全草に強い毒を持つにも関わらず、意外とそこら辺で見かけることができると聞いていたので、ようやく見ることができてうれしい。


スリランカなどの南アジアでは、自殺と結びついた植物でもあるという。その植物の身近さゆえとのことであるから、××××は南アジアではどのように見えているのだろうか。そして、それに思いを馳せている私は、これから××××がどのように映っていくのだろう。

絶対極悪劣悪潰善

悪の側のタヨーセイなので、気に食わない意見があれば殴りてえとしか思わないし、

悪だから自分の非も疑わない

絶対極悪だから、「この人はこんな背景があってこういうことをしたんだよね。この世は善悪二分することはできない」なんて言わせない

劣悪だからネットでこそこそ嫌味を言う

話も通じない、いや、わかってるけど通じない

久しぶりに…

先月、友人のお供でセクマイ系のオフ会に行ってきた。大した会話は特にしてないけど、「自分存在してるんや」って感覚を味わって1か月たった今でもその余韻に浸ってる。

少人数の会だったけれど、FtMの人(FtMって言葉久しぶりに聞いた)が数人いて、その姿を見ていると、私がこれまでに丹念に消してきたつもりの足跡を否応なく見せられているようで、正直困惑した。

 

足跡に砂をかける。できる限り波打ち際しか歩かないようにする。そうすれば、私の歩いた痕跡は波が来るたびに消えていく。ひと波。それだけでいい。ひと波。ひと波。時々、振り返ってたしかに足跡が消えているのを確認し、安堵する。

 

安堵したかった。今立っているまさにその足裏に足跡はあり、その上には私の体重があり、歩いていたはずの波打ち際に波はきていなかった。それでも、消えない自分を丹念に消そうとし続ける方が楽だ。足跡は私にしか見えていないのだから。

私にとって、シスヘテロベースの空間を過ごすということは、埋没・オープン・クローゼットいずれにせよ、そうやって過ごすことなのだ。

とはいえ、先月のオフ会で味わった困惑は後を引いている。というか、その困惑は今までの長期間におよぶ微細な積み重ねを突き崩した。

 

トランスジェンダーの写真展に行ったとき、そう銘打たれてなければ「ただのいい感じのストリートスナップ」にしか見えない写真を見て何か心揺らいだとき

かわいいはつくれるし、キモオタもつくれる

通院した。帰り道もメンタル落ち気味でずっとロリ神レクイエムを聞いていた。

キモオタ曲はリスナーがキモオタであることを前提に作られている。しかし逆にキモオタでなくても、その曲にうまく入り込めればそのコンテンツに詳しくなくても自然とキモオタになれるのだ。百合漫画「オトメの帝国」で、かわいいと言われるほどに、その人はかわいくなっていく説が提唱されていたが、キモオタ曲の場合、キモオタ扱いされることで、聞けば聞くほどキモオタになっていく。これだけだと、害悪としか思えない現象だが、それが最近の私にはよい現実逃避になっている。つまり、「辛い気持ちの私」から「キモオタの私」になれるのだ。

特に、ロリ神レクイエムはその効果が顕著である。この曲はしぐれういのオリ曲であり、vtuberの特徴でもある配信者と視聴者との距離の近さが存分に組み込まれた、内輪ネタ的な内容になっている。視聴者との掛け合いも多いこの曲は、たしかに内輪ネタではあるものの、しぐれういを大して見ていなくてもしぐれういファン(自称ゴミ)と同じような気分になってしまえるのだ。一言でいえば、しぐれういを見ずともしぐれういファンであることを追体験できる。そして何よりこの曲は、リスナーを見下すべきキモオタとして扱い、最初から最後まで徹底的にこきおろしてくれる。そんな稀有な楽曲なのである。ドヤッ

生きていてもしょうがない自分からゴミへと転身するため、ロリ神レクイエムをすがるように聞き込み、エンディングの「ほんっっっとうに気持ち悪い」という言葉に何度でも涙を流す。そんな1日でした。\たすかるぅ〜/

ゆっくりと

知り合いから「大きくなったねえ」と言われるのが好きだ。「ようこそ、よく来たね」と言われるのも好き。泣きそうになる。

20歳になる前から交流のあった大人と居酒屋で呑んだとき「お酒飲めるようになったのか~。なんだかぐっとくる。近所の子どもが大きくなるのを見てるみたい」と言われて嬉しかった。その人とは、一方的に距離感が分からなくなってしまい、もうしばらく会っていない。すごくお世話になっていたのに、お世話になっていたからこそ。

 

たまにそういうことを言われる。数回くらいしか会ったことのないYさんは、私の顔を見て少し驚いたように「なんだかお兄さんになったね」と言った。マクドナルドにいたので騒がしくてよく聞き取れず、3回くらい聞き返してその場はうやむやになったと思う。少しあとで、あ、「お兄さんになったね」って言ってたのかと気づいた。

 

ゆっくり、ゆっくりと。そして少し遠いところから。でも、なにかしら気にかけてくれている。私が何かしら変化していってること。私が時間を積み重ねていっていること。そこから離脱しなかったこと。それらを受け止めてもらったような気持ちがする。そういうことを思い出して口元がゆるむ。

 

嬉しいのは言われる側だけではない。(私にしては)長い付き合いの人に「何があったのかは分からないけど、この人変わったなあ」と思うとき、なんとなく嬉しくなる。言葉遣い。態度。話す話題。髪型。服装。価値観の変化。

この2,3ヶ月

かみさま、

注がれたものをたしかにうけとれる器をください。

空気もビー玉も炭酸水も、たしかに抱(いだ)ける器をください。

 

「まず何より自分のことをたいせつにして、たいせつである前提で生きるんだよ」みたいなメッセージが、あまりにまっすぐ言うもんだから、まっすぐ届いてしまった。いろんな曲がまっすぐ届いてなぜか涙が止まらなくなる。自分のちょっとした感情の存在に動揺する。感情はたぶんいつも揺れがあって、その揺れを私は受け止めきれない。

 

感情も、私が存在している一部分も受け止め

 

LINEの返信のコツは思ったことを書けばいいらしい。思ったこと?