性別・写真欄のない履歴書をつくりました。おまけ:生年月日も不要の履歴書

表題の通りです。

性別欄のない履歴書はネット上でいくつか見つかったのですが、写真不要のものは見当たらなかったので作りました。写真不要にした動機は、わざわざ写真撮って切り貼りするのがめんどくさいの1点のみです。

今日ともう一つ、数日後にバイトの面接に行くので、この履歴書に対してどんな反応があったか、追記にて書くつもりです。この履歴書に関して不都合が生じたとしても、何も責任は負いません。

性別欄について一言だけ述べておくと、持参する履歴書以外にもバイト先の登録のため書類を書かされることがあり(特にチェーン店とか)、そこに性別欄ががっつりある場合がほとんどです。だから、性別欄のない履歴書を持参するにしても、男か女か性別を書かされる可能性があるということは念頭に置いておいた方が無難です。クソみたいなシステムですね。

 

あとついでに、生年月日も不要の履歴書もつくりました。

ワードファイルですので、あらかじめ学歴や名前などを保存しておけば、わざわざ何度も手書きする必要もありません。すばらしい。できる限り、楽して生きたいものです。

 

www.evernote.com

改善点などありましたら、ご連絡ください。

履歴書を使った方がいらっしゃれば、どんな対応だったかご一報いただけると嬉しいです。 

 

追記(履歴書利用報告):

@飲食店(小規模、個人経営)
性別欄や顔写真がないことについて何も言及されませんでした。気づいていない模様。
履歴書が手書きではなく、プリントアウトしたものであることについては「今の時代、(履歴書は)プリントするのね」と店長さん。「売ってある履歴書は高かったので、自分でプリントしました」と答えると、「おお、そうなのか」と返答され、その話題は終わった。「そんなこともあるのね」程度で気にしていない様子。よかったよかった。ちなみに、そのバイトは受かりました◎

この履歴書とは話は変わりますが、名前のジェンダーイメージと見た目にギャップがあることを指摘され、「君、〇性だよね?」と尋ねられました。(´-ω-`)ヤレヤレ

「発達障害」への呪詛

高校生のとき、学校に行ったり行かなかったりしていた時期があった。
その頃に、周囲の大人たちから「お前は発達障害じゃないか」ということを何度も言われて、違和感ありまくりだった。

 

私は、特に計画性のなさに関しては、発達障害的な傾向があると思っている(医学的な診断はない)が、あらゆる出来事の原因を障害に帰すことは明らかにおかしい。


学校に行ったり行かなかったりし始めたのは、高2から始まった(ちなみに何度か家出をしたのも高2。家出についても言いたいことはあるがまたいつか。)。つまり、それ以前はほとんど遅刻したことはなかったのだ。遅発性の発達障害というのもあるという話を聞いたことがあるが、それにしても急すぎる。というか、なぜ発達障害原因説が持ち上がったのか、今考えるとよくわからない。(個人の特性が学校側が要求するものと合わなかったために、ストレスが溜まって行かなくなった、などなど障害を起因とする様々な理由は考えうるだろう。しかし私の場合、発達障害の特性以外に原因があるとはっきり自覚しているし、それらは4年経った今でもある面では引きずっている。)


周囲の大人は意識的にか無意識にか、私に発達障害を着せることで、ほかの要因から目をそらしていた、もっというと何かしらの責任(を負う可能性)や更なる大きな問題(が存在する可能性)から逃れていたのではないか。

 

(もし私が発達障害が主たる原因で、学校に行ったり行かなかったりしていたのなら、家庭や学校の責任はかなり軽くなるだろう。もちろん、サポートなどの対応を考えなければならないし、発達障害のある生徒が来れなくなる原因があったことについて責任はあるが、たとえば体罰や家庭内の不和が原因だった場合などを考えれば、学校や家庭の負う社会的責任は、そちらの方がはるかに重くなるだろう。)

 

学校での友達関係はすこぶる良好で私自身、とても楽しかったから、いじめが原因ではないし、発達障害しか思いつかなかったのかもしれない。私は行ったり行かなかったりしている理由は特に明言しなかった。

とはいえ、あまりにも発達障害の可能性を遠回しに、ときには直接言い寄られたのはとても不愉快だった。もっと他の可能性も考えてほしかった。そこまで要求するのは言い過ぎかもしれない。先生も忙しいし、個人の行動の理由なんて分からなくて当たり前。しかし少なくとも、行ったり行かなかったりしている理由を勝手に押しつけることはやめてほしかった。

 

 


もちろん、発達障害と診断され、合理的配慮制度を利用することで、才能を発揮できたりしてより楽しく生きられたり、また、社会のあり方が見直されたりするなど、「発達障害」という名前ができたことで得られるものはたくさんある。「名前はついていることが大切だ」とシン・ゴジラの大河内総理が言っているが、まさにその通りだ。「発達障害」という言葉が広まったことのメリットは大きい。

Image result for 大河内総理 名前はついていることが

 

発達障害なぞ嘘っぱちだ」と言うつもりは全くありません。

 

発達障害の診断の有無に関わらず、サポートを必要としているなら、サポートを利用できるようにするべきだとも考えています。診断は医療行為であれど、合理的配慮制度は医療行為ではありません。

 

ともあれ、「発達障害」という言葉によって、見落とされてしまうものがあるのではないでしょうか。
発達障害(かもしれない)者一個人を取り巻く、あらゆる問題の原因が発達障害にあるわけではない。複合的な原因であったり、全く他のことが主たる原因である可能性もありますよね。

 

日頃できていたかもしれないことが、心身の不調でできなくなることは誰にだってあるはずです。


そういう、ある意味で当たり前のことを主張したいのです。

 

 


追記:今読んでいる本に、上記の内容とすこーし関わることが書かれていました。長くなりますが、引用します。(当ブログをざっくり書き終えて、読みにくいところがないか、後で確認しようと思っていたところでこの本に出会いました。なんていいタイミング!)

 

 

 

 

障害は医療化されることになるが、そのことに疑問を寄せる者いない。胎児が障害をもっているかどうかの確定から、ディスエイブリングな状態におかれた老人の死まで、医師は障害者の生活に関与する中心人物である。インペアメントの診断、外傷を受けた後に医学的に状況を安定させること、ディスアビリティとは関係ない疾病の治療、身体的リハビリテーションの施療のように、医師の関与はもちろん至極適切なものもある。しかし同時に、医師は、車を運転する能力を査定したり、車いすの利用を指示したり、金銭的な手当の要不要を決めたり、どのような教育を受けさせるかを選択したり、働く能力とその潜在能力を測定したりすることにも関わっている。医師養成課程を修了して免許をもつからといって、こういう場面に関わるにあたって医師が最もふさわしい人物とはいいきれない。それだけではなく、理学療法士作業療法士保健師、看護師、教師までを含む、多くの専門家はすべて、医師がヒエラルキーの上位に据えられた組織のなかで働いているか、医学モデルにもとづいた言説のなかでそれぞれの専門的な実践をおこなっている。

 

”障害の医学モデルは臨床診断を過度に強調するが、まさにその特性のために障害者個人を部分的で抑制的に見てしまうようになる。
 生々しい経験としての障害を理解するためには医学的判断は必要であるが、医学的「事実」以上のものも必要である。医師が(治療が適当であれば)治療法を決める場合だけではなく、偶然障害者になった人の人生のあり方を決めるときにも、問題は発生するのである(Brisenden, 1986, p. 173).”


マイケル・オリバー『障害の政治』p95、96より

分からなさについて

無知な私が知ったかぶりして、むつかしそうな本を読み通せるのは、むつかしい箇所、読んでいてよく分からなかった箇所を読み流しているからである(疲れているときは読み飛ばすことも多々ある)。全体を読めば分かってくるのではないかという期待も込めつつ、読み流すのである。(一応、少しは立ち止まって自分なりにその文の意味について考える努力はしているつもり。)実際、続きを読むことで、あの文はこういう事を言いたかったのかと納得することもある。しかし、全部読み終えても分からないままの部分も間違いなくある。


私のその本への理解は、分かった部分だけをつなぎ合わせた(分からないところが抜け落ちた)ちぐはぐなものだ。

分かりそうで分からない、みたいなところは、「結局あれはなんだったんだろう?」と疑問として残ることも(小説とか特に)あるが、もうサッパリ訳が分からない!お手上げ!な部分は、どんな文章だったかすらよく覚えていない。記憶から抜け落ちていく。

だからこそ、サッパリ分からないような文は少し意識して読みたいと思う。*1

 

 

私が何かが分からないという時、それは、その議論の流れに入れていないということを表すのではないか。

西田幾多郎の本をぼちぼち読んでおしゃべりする、みたいな授業に途中から参加したことがある。最初は話を聞くのでせいいっぱいだったが、少しずつ何について話しているか、分かってきた。

そんな時、先生と最初から参加していた人から「授業どうだい?」と聞かれて、「なんとなく分かってきました!」と言ったら、「僕はどんどん分からなくなっていくけどね(笑)」と言われた。それに続けて、「明確には分かるなんて嘘っぱちだ!分からないことこそ素晴らしい!」みたいなことを言われた。

私とその人とで何が違ったんだろう。 

確かに、何かを知れば知るほど、話し合えば話し合うほど、分からなくなっていく感覚というのは私も経験したことがある。

知れば知るほど、話し合えば話し合うほど分からなくなるときの「わからなさ」というのは何かを知っているとか、何かしらの流れの中にその人がいることが前提にあり、その流れに乗れない「分からなさ」とは、別物なんじゃないか。

「わからなさ」にも色々種類がある*2のだなあ。

 

以下、イヴ・コゾフスキー・セジウィックの「クローゼットの認識論」からの引用。

(クローゼットの認識論、読み始めたばっかりだけどむつかしくて読み流しまくり、傷つきまくりです😇)

(無知に関してセジウィックはPrivilege of unknowing なる文章を書いているらしい。気になる。)

これは構造的には、無知を原初の受動的無垢と見て、よりはっきり感傷的に特権化することと、危険なまでに近い。

 

無知がある一つの知識についての無知である限りーーー言うまでもなく、その知識自体が別な真実の制度においては、真実と見られたり虚偽と見られたりし得るのだがーーーこれら様々な無知は、原始の暗闇の断片であることなどからは程遠く、特定の知識に応じ、その特定の知識によって生産され、特定の真実の制度の一部として流通するものなのだ。

*1:

RAMびさんが前に、読書の挫折体験を傷と表現していたことをなんとなく思い出した。以下、ツイッターから引用

”読み損ねる、挫折としての読書、それ自体が経験であり、理解_無理解を越えた傷として記される。”

*2:種類があるというのは、それにある程度傾向があって、大きな分類ができるみたいな意味を含んでるなあ。

Gに情が湧く  ~同情と恐怖について~

蒸し暑い深夜、わき腹あたりにサリサリと何かが動いているのを感じ、目が覚めた。もしかして!と急いで電気を点けたところ、やはり黒光りする奴の姿が。

急いで新聞を丸めて退治。

 

近所の通りや玄関付近でGを見かけていたので警戒せねばと思っていた矢先の出来事だったので、対策が遅れたことが悔やまれます。

 

 

さて、今回のゴキブリ騒動での私の感情の動きを振り返ってみましょう。自分の感情の変化を省みることはここ一年のマイブームなのです。

 

 

まず、ごきぶり発見時。うわあ、やっぱりお前か、、、というショックと、「早く退治せねば!」という気概に駆られます。

丸めた新聞ソード片手にGと対峙した時。「一発で確実に仕留めるぞ!!」「やっつけてやるーーーうおりゃああああ!!!!」という野生的な戦闘モードに入っていました。Gが私に向かって猛ダッシュしてきたり、飛んできたらどうしようという恐怖はあったものの、ゴキブリ退治をすることに迷いはありません。

 

そんなこんなで、パッと見た感じ奴は死んだと思える位の瀕死レベルにまで追いやることに成功しました。しかし、そこですぐに回収!というわけにはいきません。念には念を入れよ。Gは実は死んだふりをしていて、奴を処理するために新聞紙ソードを手放した丸腰の私に、襲い掛かってくるかもしれません。

 

ここで、先ほどまでのGを追いかけている時のテンションが維持されていたならば、私は容赦なく最後の一撃を下していたところでしょう。しかし、私はそうするのをためらいました。

 

瀕死のGに情が湧いていたのです。

もう一発振り下ろして、トドメをさそうという心意気はもうありませんでした。

結局私は、新聞ソード片手に瀕死っぽいゴキブリくんに厳戒な注意を払いつつ、湯沸かし器をセットし、熱湯をかけることで、なんとかやっつけることに成功しました。

 

なぜ戦闘モードから一転、同情が湧いたのでしょう。この急な気持ちの変化は何なのだろう。

 

元気なゴキブリちゃんを見かけた時、私は戦闘モードでした。戦闘モードというのはGに対する恐怖の裏返しであり、戦闘モードはこの恐怖感によって引き起こされたのでしょう。(戦闘モードが恐怖を生み出したとは考えられません。)

戦闘モードは恐怖をエネルギー源としている。

 

ゴキブリが瀕死になった時になぜ、ちょっと前までの戦闘モードのノリで叩き潰すことができなかったのだろうか。なぜ恐怖は一気に同情に変化したのだろう。

パッと思いつく理由は、Gが弱っていてこちらに危害を加える可能性がかなり下がったからというところでしょうか。それなら、Gに手当を施そうとしてもよかったのではないでしょうか。私は熱湯をかけてトドメを刺し、殺しました。つまり、恐怖は全く失われていないのです。

恐怖はそのままに同情心が現れてきたみたいです。そこで、恐怖と同情は実は同じものなのではないかという考えが浮上します。

 

もしかすると、恐怖と同情は、水(液体)と水蒸気の関係に似ているのかもしれません。一定の量の水が熱せられると気化する。水は減り、水蒸気が生まれる。

冷めると水蒸気が水へと液化する。結果水蒸気は減り、水が増える。

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つまりのようなものですが、ここで強調したいのは恐怖と同情は水と水蒸気のように、姿は違えど同じものであるというです。

同情というものは、恐怖を抱くことと隣り合わせなのではないでしょうか。安全地帯が揺らいだ時、一瞬にして恐怖へと転じる同情。

 

もう一歩進んでみましょう。水と水蒸気はどちらも同じ水H2Oからできていると思うのですが、恐怖と同情の共通点は何でしょうか。先のゴキブリの例から考えてみます。「逃さず叩いてやるぞ!」という時と「死にかけてかわいそう」とトドメを刺すのをためらうのは全く別の正反対のように思えます。しかし、そこには大前提が存在します。それは「ゴキブリに触りたくない!!!」ということです。ゴキブリ退治に燃えている私も、こちらに突進してきたらどうしようという恐怖がありましたし、瀕死のゴキブリへの最後の一撃をためらっても、ゴキブリを介抱しようなんて1ミクロンも思いません。

恐怖にも同情にも、関わりたくない気持ちが根底にあるようです。

 

 

そういえば、「同情するなら金をくれ」という超有名な言葉がありますが、かわいそうだと言いつつも絶対に近づこうとしない、関わろうとしない同情への批判だと捉えることもできそうです。

雨がもたらす安らぎと雨音について

今日、こちらでは雨が降っています。

用事がない日の雨は喜ばしいものです。

 

特に雨音は私に安らぎをもたらします。

でも、雨音が聞きたくなった時に、雨の録音をユーチューブなんかで聞いてみても、何か違う。JPOPやクラシックなどの音楽だったら録音でも十分に楽しめるのに、なぜ雨音は楽しめないのでしょうか。気分の問題?

 

今回は雨を感じつつ、ちょっと雨について考えてみます。

 

雨音は「雨の降る音」といいますが、実際には雨が落ちてきているまさにその途中の、雨粒と空気との摩擦の音は聞こえません。(聞こえるとしたらどんな音なんだろう??矢が飛ぶ音みたいな感じ?ピュン!)ですので、「雨が地面とぶつかる音」「雨が地面で跳びはねる音」といった方がいいかもしれません。

 

そんな雨音ですが、普段聞こえる音とは、全く違う性質があるのです。それは、距離感があやふやなことです。

私たちの持つ音に対する距離感覚は、救急車を思い出してもらえばすぐにわかると思います。音の高さや大きさの変化で、「救急車が向こうへ行った」とか「うわ~近くで停まったよ。知り合いじゃなければいいんだけど......」なんてことを考えます。

ラジオや洗濯機の音、授業で誰かが発表する声。正確ではなくとも、音源までの距離はなんとなく分かるものです。

 

さて、雨の場合を考えてみましょう。

雨音はどこから聞こえるでしょうか。今、雨が降ってるよって人はどこから聞こえるのか、よくよく耳をすませてみてください。

 

 

 

近くは、屋根や傘などの頭上や、目の前の地面から。遠くからは、車が水たまりをバシャーーっと通る音や、遠くから聞こえるために小さくなってしまった雨音も聞こえてきます。メデューサの目を見た者が一様に石になってしまうように、雨の日は外にあるものすべてが、雨や水たまりにぶつかって雨音を発する音源へと変化していきます。

 

このように、雨音は様々な距離から同時にやってくるため、私たちの音に関する距離感覚を少しゆるめ、それに雨が外界の音を雨音へと変化させる効果もあいまって、雨は普段とは違う、新たな日常空間へと私たちを呼び込むのです。

 

冒頭に私がユーチューブの雨音を楽しめなかったのも、スマホは、ラジオなんかと同様に、距離感覚をつかみやすい音しか発してくれなかったからです。うまく立体音響を再生できるミュージックプレイヤーがあれば、雨の癒しを疑似体験できるでしょう。

 

雨が音のある静けさを生み出すのも私たちがもつ音に対する距離センサーがゆるむためです。

それは秋の夜長の虫の声や、カフェなどの雑談が入り混じる空間で他人の声があまり気にならなくなることと同じかもしれません。

 

 

 

そうこうしているうちに、雨がやんでしまいました。私は夕飯の材料を買いに行かねばなりません。それでは。

映画 美女と野獣 考察

美女と野獣』見てきました!実はストーリー全然知らなかったので、ワクワクしながら見れました!Twitter上ではネタバレになりそうなのでこちらで感想を、、、

 

外見で判断しちゃダメ!というストーリーには私もあまり思えませんでした。 

 

外見重視しているキャラクターは野獣(野獣って名前何だっけ???)とガストンの二人。

まず第1に、野獣の面食いは結局何も変わっていない!

(外見を気にしちゃダメというのはベルに向けられた言葉だと思うけど、ベルはしゃべる野獣や家具たちに対して驚きこそすれ、そもそも恐怖を抱いたり野獣や家具だからという理由で敬遠したりもしていない。)

そして一番面食いアピールが激しかったガストンはというと、面食いは何も変わらないままアッサリ死んだ!!!!!!(ディズニーってメインキャラクターをあっさり死なせちゃうような感じなの!?と思ったけど、何か色々ありそう。これは後で書きます。)

 

じゃあ、どういうストーリーなのかというと、人との出会いや過去を知ることによって主に野獣が成長していくストーリーなのかな、と感じました。

 

人との出会いというのは、言わずもがな、恋愛パートですね。同じ趣味を通して、お互いのいろんな面を知っていきます。これは美女たちを集めてダンスパーティーをしていた王子時代の野獣くんには、なかった経験でしょう。自分の思い通りにいかない他人。野獣くんの人間としての自尊心がベルとのコミュニケーションを通じて回復しつつあるようにも感じられます。

 

ベルも変人扱いされていたので(美女の特権的な!待遇を受けてはいたものの)、人間関係に関しては、お父さん以外とあまり密に話すことはなかった。

 

相手の思わぬ一面を知っていくようなフレッシュな人間関係の代わりにベルも野獣くんも、読書をしていたのかもしれません。

 

あともう一つ、一歩成長するのに欠かせないのは、過去を知ること、過去と距離をおけるようになること。

 

ベルも野獣くんも、ずっと幼い頃に母親をなくしています。

 

ベルに関しては母親がいなくなったことの影響についてあまり描かれていませんが、ベルがパリに行って、母親との別れの真相を知るシーンから、父親はベルの母の死の理由を説明していないか、ごまかされていたことが分かります。ベルも気になっていはいたものの、聞くに聞けませんでした。重たい話題はしづらいものです。大切な人の死について、何かを隠している・聞けずにいるという関係は、何かしらの(あるべきではない)キョリを生みます。劇中で、ベルがどこでも行ける本を見せられたときに、真っ先に母と別れた場所へ行ったことから、やはりベルの心にずっと引っかかるものがあったことが分かります。

(もしかすると、ベルがバラをねだったことや、ベルの父親が盗むまでしてバラを持って帰ろうとしたこともここに関係するかもしれません。)

 

野獣くんの過去とその影響は、はっきり説明されています。

母を幼い頃に亡くし、父から甘やかされた結果、現在の野獣くんの性格になってしまった。

 

ここで、家族が関わる野獣くんの問題を解決に導く、そして、美女と野獣のストーリーを支配している(!)魔女について触れたいと思います。

魔女さんは、王子を野獣の姿に変え、しかも関係ない家来まで家具にし、さらには、バラがすべて落ちたにも関わらず、野獣くんを復活、さらには人間の姿にまで戻します。(このシーンを見たとき、なんでそうなるの!!!!と思いました(笑))

そんなこのストーリーを動かしている魔女ですが、ほとんど何もしゃべっていません。

見終わってから一番気になったのはやはり魔女でした。あいつは誰なんだ。

私は、魔女は【野獣くんの亡き母親】ではないかとみています。そうすれば、魔女の理不尽な行動や何もしゃべらない理由が説明できそうです。

 

野獣くんの亡き母親は、自分の死後の野獣くんの成長を心配していました。野獣くんは王子という特権階級であるため、野獣くんに成長のきっかけ、試練を与えるような人はいません。このまま、野獣くんが王様になってしまえば、マリーアントワネットみたいな酷な最期を迎えてしまうかもしれない。そこで、亡き母親は魔女となり、野獣くんに直接試練を与えます。愛し愛されるようになるまで野獣の姿のまま!しかもタイムリミットあり!

 

あんな山奥の、忘れられた城にやってくる人はなかなかいないことでしょう。ベルの父親が城にたどり着くキッカケとなるのは木に落雷し、道を間違えたからでしたが、もしかすると、亡き母親である魔女が人を選別していたのかもしれませんね(笑)

 

魔女が関与するシーン2は、ベルの父親を救うシーン。まあ、ここはそんなに重要なシーンではない&解釈の幅が広くなっちゃったので省略。

 

魔女が関与するシーン3は一番最後。魔女は、時間切れ&銃で撃たれて死んだ野獣くんを復活させます。このシーンで「ええええ!なんでえええ!???魔女は何がしたいんや!!!!」と私は驚きました!ただ、今考えるとこのシーンこそが魔女は野獣くんの母説を裏付けるものとなります。魔女が唐突に、ベルの涙に感動したとも思えませんし、魔女が野獣くんの母親だと考えた方がこのシーンはシックリきます。というよりそれ以外考えられない!

母の陰の支えにより、母の死以降うまく成長できていなかった野獣くんはは無事一歩成長しましたとさ。めでたしめでたし。野獣くんの母親による、町一帯を巻き込んだ壮大な野獣くん更生作戦を私たちは見ていたのかもしれません(笑)

 

こうして見ていると、野獣くんもベルも、成長というよりも、成長を阻害していたものを取り除いた、成長の種がまかれたといった方がいいかもしれませんね。

 

(この考察で母親を重きにおいたのは、私のマザコンのようなものが大きく影響しているなあと思います。)

 

 

 

 

 話は変わって、ガストンの死についても少し。

ガストンが橋から落ちるシーンは、ショックでした(´;ω;`)

思わず耳と目をふさぎました(´;ω;`)

ディズニー事情はよく知らないのですが、ディズニーがあんなにハッキリ死を描くとも信じがたいので、現実逃避的な考察を。

 

ガストンは死んだのではなく、野獣くんと同じく、忘れ去られただけなのだ!!!と私は主張したい。まじで!

ガストンも野獣くんと同じく強烈な面食いです。(いや、面食いが悪いわけではないと思うけど(笑))さらに、フィナーレの舞踏会で、ガストンをあれだけ慕っていたルフウが満面の笑みで踊っています。これは、野獣くんやその城の存在とともに忘れられてしまったように、ガストンもみんなに忘れられる魔法をかけられたのではないか!!とやや強引ながら、そう考えます。そしてもう1人の野獣、ガストンも人間になっていくのかもしれません。

ディズニーのエイプリルフールネタである「俺様と美女」の公開もいつかあるかもしれません(笑)

俺様と美女|美女と野獣|ディズニー公式

 

 

最後に感想。人間味あふれるルフウが好きでした。あと呪われた食器たちが家にきてくれないかなあ。

セワシくんのタイムパラドックスにつ

最近、時間移動が関係する様々なSFの世界での時空間について考えています。時間移動SFといえば、ドラえもんは欠かせません!

 

そこでドラえもんのストーリーをぼやっと思い出していたのですが、のび太の子孫、そしてドラえもんのび太によこした張本人であるセワシくんがタイムパラドックスについて説明を与えていました!

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これを読んだ当時、小学生だった私も幼いながらにこのアイディアに衝撃を受けた事をよく覚えています。なぜなら、このセワシくんの時間解釈がそのまま私の時間についての解釈になっていたからです。

 

初めて衝撃を受けたあの時から、10年ほど時間が経過した今、改めてセワシくんによるタイムパラドックス理論(?)を検討してみると、少し思う所が出てきたので今回ブログを書くに至りました。

 

早速本題に入りましょう。

セワシくん理論を簡略して書くと以下のようになります。

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なるほど、確かに私たちの普段の生活でもどんなに頑張ったり気をつけていたりしても、やらかす時はやらかします。逆にテキトーにしていたのに上手くいく事だってあります。

 

そんなことが何度も起こると「全ての物事はどのみち、こうなると決まっていたのだ」と運命論を信じたくなります。

 

これは私が、時点Bを強く意識した場合です。でも、結果は一つではない。これだけは避けがたいと考えられるもう一つ大きなやらかし、時点Cを取ってみましょう。

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すると.............

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じゃじゃん!こうなります。

なんだかもう一点時点を増やしたくなってみました!

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じゃじゃーん!でもでも、よく振り返ってみると、私のたった20年の人生にも避けがたいと思われるポイントがたくさんあります。そこで時点をE,F,G,H,I,J,••••••と無限に増やしていきます。すると.............

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ああ