サカナクション『DocumentaLy』「RL」

サカナクションのアルバム『DocumentaLy』1曲目「RL」について。

とりとめもなく、ぼんやり書いたのでそんな感じで読んでほしい。

 

アルバムの題『DocumentaLy』にはなぜか単語の途中に大文字のLが含まれる。その事を、「RL」を通して考えてみた。

 

イヤホンで片耳ずつ聞いてみると、かなり違う音が流れていることに気付く。

 

右耳は両耳で聞いた時とあまり変わらない印象だ。ピ・ピ・ピ・ポーンと時報のようなものが鳴っている。こちらではd,o,c,u,m,e,n,t,a,r,yとrで呼んでいる。

 

さて左耳。最初は一瞬音楽が流れない。そしてブンッと何か古めの電子機器のスイッチを入れたような音が聞こえたのち、キーボードをカチャカチャする音、そしてピッ、ピッ、という音が鳴り始める。このピッ、ピッ、と似た音は右耳からも聞こえてくるがよく聞いてみると少し違う。左からは時報のポーンという音は鳴らない。ドラマなんかで臨終を告げるあの機械の音のようにも感じられる(ちなみにあれの名前は生体情報モニタと呼ぶらしい)。そして、右イヤホンとは違ってdocumentaryではなく、mentalyと読み上げられる。

 

documentaryは、「文書の、書類の、事実を記録した」、mentaly(mentally)は「精神的に、知的に、心の中で、心では」という意味だ。このアルバム『DocumentaLy』には事実の世界と心的な世界の2つの軸があるのだろう。

 

両耳で聞いてみる。例のアラームが、最初は右耳からそして、2度目のポーンという音とともに左耳から鳴り始める。右と左のアラームは音が違うだけでなく、鳴るタイミングも少しずれている。右のピを受けて左のピが響いているようにも聞こえる。左右のアラームは徐々に遠ざかり、RLを過ぎて再び接近していく。

 

事実から心的世界が浮き上がり、響き合う。ずれつつ繰り返されていく。反響。

 

(ちなみに「RL」から連想されるものの一つに「左右」がある。このアルバムは2011年に発売されたが、その前年の2010年にボーカルであり作詞作曲をしている山口一郎さんは突発性難聴を発症し、右耳がほとんど聞こえない状態になったそうだ。)

 

そして始まりを告げる最期の時報、続いてタタタタと鳴って、一気に次の曲「アイデンティティ」のサビへと駆け上がっていく。

 

 

そういえば、このRLからアイデンティティへの流れを聞いて、ロケット発射を思い出した。

10、9、・・・、3、2、1、LIFTOFF!!!

有人無人に関わらず、ロケットがもっとも華やかなのは打ち上げの時だ。

同様にこのアルバムも「RL」から次の曲「アイデンティティ」へ一気に駆け上がって以降、アップテンポな曲はほとんどない。

Documentaly』号と一緒に事実と心的世界が響き合う宇宙探索へ行ってみるつもりで聴き直してみるのもありかもしれない🚀

Gに情が湧く  ~同情と恐怖について~

蒸し暑い深夜、わき腹あたりにサリサリと何かが動いているのを感じ、目が覚めた。もしかして!と急いで電気を点けたところ、やはり黒光りする奴の姿が。

急いで新聞を丸めて退治。

 

近所の通りや玄関付近でGを見かけていたので警戒せねばと思っていた矢先の出来事だったので、対策が遅れたことが悔やまれます。

 

 

さて、今回のゴキブリ騒動での私の感情の動きを振り返ってみましょう。自分の感情の変化を省みることはここ一年のマイブームなのです。

 

 

まず、ごきぶり発見時。うわあ、やっぱりお前か、、、というショックと、「早く退治せねば!」という気概に駆られます。

丸めた新聞ソード片手にGと対峙した時。「一発で確実に仕留めるぞ!!」「やっつけてやるーーーうおりゃああああ!!!!」という野生的な戦闘モードに入っていました。Gが私に向かって猛ダッシュしてきたり、飛んできたらどうしようという恐怖はあったものの、ゴキブリ退治をすることに迷いはありません。

 

そんなこんなで、パッと見た感じ奴は死んだと思える位の瀕死レベルにまで追いやることに成功しました。しかし、そこですぐに回収!というわけにはいきません。念には念を入れよ。Gは実は死んだふりをしていて、奴を処理するために新聞紙ソードを手放した丸腰の私に、襲い掛かってくるかもしれません。

 

ここで、先ほどまでのGを追いかけている時のテンションが維持されていたならば、私は容赦なく最後の一撃を下していたところでしょう。しかし、私はそうするのをためらいました。

 

瀕死のGに情が湧いていたのです。

もう一発振り下ろして、トドメをさそうという心意気はもうありませんでした。

結局私は、新聞ソード片手に瀕死っぽいゴキブリくんに厳戒な注意を払いつつ、湯沸かし器をセットし、熱湯をかけることで、なんとかやっつけることに成功しました。

 

なぜ戦闘モードから一転、同情が湧いたのでしょう。この急な気持ちの変化は何なのだろう。

 

元気なゴキブリちゃんを見かけた時、私は戦闘モードでした。戦闘モードというのはGに対する恐怖の裏返しであり、戦闘モードはこの恐怖感によって引き起こされたのでしょう。(戦闘モードが恐怖を生み出したとは考えられません。)

戦闘モードは恐怖をエネルギー源としている。

 

ゴキブリが瀕死になった時になぜ、ちょっと前までの戦闘モードのノリで叩き潰すことができなかったのだろうか。なぜ恐怖は一気に同情に変化したのだろう。

パッと思いつく理由は、Gが弱っていてこちらに危害を加える可能性がかなり下がったからというところでしょうか。それなら、Gに手当を施そうとしてもよかったのではないでしょうか。私は熱湯をかけてトドメを刺し、殺しました。つまり、恐怖は全く失われていないのです。

恐怖はそのままに同情心が現れてきたみたいです。そこで、恐怖と同情は実は同じものなのではないかという考えが浮上します。

 

もしかすると、恐怖と同情は、水(液体)と水蒸気の関係に似ているのかもしれません。一定の量の水が熱せられると気化する。水は減り、水蒸気が生まれる。

冷めると水蒸気が水へと液化する。結果水蒸気は減り、水が増える。

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つまりのようなものですが、ここで強調したいのは恐怖と同情は水と水蒸気のように、姿は違えど同じものであるというです。

同情というものは、恐怖を抱くことと隣り合わせなのではないでしょうか。安全地帯が揺らいだ時、一瞬にして恐怖へと転じる同情。

 

もう一歩進んでみましょう。水と水蒸気はどちらも同じ水H2Oからできていると思うのですが、恐怖と同情の共通点は何でしょうか。先のゴキブリの例から考えてみます。「逃さず叩いてやるぞ!」という時と「死にかけてかわいそう」とトドメを刺すのをためらうのは全く別の正反対のように思えます。しかし、そこには大前提が存在します。それは「ゴキブリに触りたくない!!!」ということです。ゴキブリ退治に燃えている私も、こちらに突進してきたらどうしようという恐怖がありましたし、瀕死のゴキブリへの最後の一撃をためらっても、ゴキブリを介抱しようなんて1ミクロンも思いません。

恐怖にも同情にも、関わりたくない気持ちが根底にあるようです。

 

 

そういえば、「同情するなら金をくれ」という超有名な言葉がありますが、かわいそうだと言いつつも絶対に近づこうとしない、関わろうとしない同情への批判だと捉えることもできそうです。

雨がもたらす安らぎと雨音について

今日、こちらでは雨が降っています。

用事がない日の雨は喜ばしいものです。

 

特に雨音は私に安らぎをもたらします。

でも、雨音が聞きたくなった時に、雨の録音をユーチューブなんかで聞いてみても、何か違う。JPOPやクラシックなどの音楽だったら録音でも十分に楽しめるのに、なぜ雨音は楽しめないのでしょうか。気分の問題?

 

今回は雨を感じつつ、ちょっと雨について考えてみます。

 

雨音は「雨の降る音」といいますが、実際には雨が落ちてきているまさにその途中の、雨粒と空気との摩擦の音は聞こえません。(聞こえるとしたらどんな音なんだろう??矢が飛ぶ音みたいな感じ?ピュン!)ですので、「雨が地面とぶつかる音」「雨が地面で跳びはねる音」といった方がいいかもしれません。

 

そんな雨音ですが、普段聞こえる音とは、全く違う性質があるのです。それは、距離感があやふやなことです。

私たちの持つ音に対する距離感覚は、救急車を思い出してもらえばすぐにわかると思います。音の高さや大きさの変化で、「救急車が向こうへ行った」とか「うわ~近くで停まったよ。知り合いじゃなければいいんだけど......」なんてことを考えます。

ラジオや洗濯機の音、授業で誰かが発表する声。正確ではなくとも、音源までの距離はなんとなく分かるものです。

 

さて、雨の場合を考えてみましょう。

雨音はどこから聞こえるでしょうか。今、雨が降ってるよって人はどこから聞こえるのか、よくよく耳をすませてみてください。

 

 

 

近くは、屋根や傘などの頭上や、目の前の地面から。遠くからは、車が水たまりをバシャーーっと通る音や、遠くから聞こえるために小さくなってしまった雨音も聞こえてきます。メデューサの目を見た者が一様に石になってしまうように、雨の日は外にあるものすべてが、雨や水たまりにぶつかって雨音を発する音源へと変化していきます。

 

このように、雨音は様々な距離から同時にやってくるため、私たちの音に関する距離感覚を少しゆるめ、それに雨が外界の音を雨音へと変化させる効果もあいまって、雨は普段とは違う、新たな日常空間へと私たちを呼び込むのです。

 

冒頭に私がユーチューブの雨音を楽しめなかったのも、スマホは、ラジオなんかと同様に、距離感覚をつかみやすい音しか発してくれなかったからです。うまく立体音響を再生できるミュージックプレイヤーがあれば、雨の癒しを疑似体験できるでしょう。

 

雨が音のある静けさを生み出すのも私たちがもつ音に対する距離センサーがゆるむためです。

それは秋の夜長の虫の声や、カフェなどの雑談が入り混じる空間で他人の声があまり気にならなくなることと同じかもしれません。

 

 

 

そうこうしているうちに、雨がやんでしまいました。私は夕飯の材料を買いに行かねばなりません。それでは。

映画 美女と野獣 考察

美女と野獣』見てきました!実はストーリー全然知らなかったので、ワクワクしながら見れました!Twitter上ではネタバレになりそうなのでこちらで感想を、、、

 

外見で判断しちゃダメ!というストーリーには私もあまり思えませんでした。 

 

外見重視しているキャラクターは野獣(野獣って名前何だっけ???)とガストンの二人。

まず第1に、野獣の面食いは結局何も変わっていない!

(外見を気にしちゃダメというのはベルに向けられた言葉だと思うけど、ベルはしゃべる野獣や家具たちに対して驚きこそすれ、そもそも恐怖を抱いたり野獣や家具だからという理由で敬遠したりもしていない。)

そして一番面食いアピールが激しかったガストンはというと、面食いは何も変わらないままアッサリ死んだ!!!!!!(ディズニーってメインキャラクターをあっさり死なせちゃうような感じなの!?と思ったけど、何か色々ありそう。これは後で書きます。)

 

じゃあ、どういうストーリーなのかというと、人との出会いや過去を知ることによって主に野獣が成長していくストーリーなのかな、と感じました。

 

人との出会いというのは、言わずもがな、恋愛パートですね。同じ趣味を通して、お互いのいろんな面を知っていきます。これは美女たちを集めてダンスパーティーをしていた王子時代の野獣くんには、なかった経験でしょう。自分の思い通りにいかない他人。野獣くんの人間としての自尊心がベルとのコミュニケーションを通じて回復しつつあるようにも感じられます。

 

ベルも変人扱いされていたので(美女の特権的な!待遇を受けてはいたものの)、人間関係に関しては、お父さん以外とあまり密に話すことはなかった。

 

相手の思わぬ一面を知っていくようなフレッシュな人間関係の代わりにベルも野獣くんも、読書をしていたのかもしれません。

 

あともう一つ、一歩成長するのに欠かせないのは、過去を知ること、過去と距離をおけるようになること。

 

ベルも野獣くんも、ずっと幼い頃に母親をなくしています。

 

ベルに関しては母親がいなくなったことの影響についてあまり描かれていませんが、ベルがパリに行って、母親との別れの真相を知るシーンから、父親はベルの母の死の理由を説明していないか、ごまかされていたことが分かります。ベルも気になっていはいたものの、聞くに聞けませんでした。重たい話題はしづらいものです。大切な人の死について、何かを隠している・聞けずにいるという関係は、何かしらの(あるべきではない)キョリを生みます。劇中で、ベルがどこでも行ける本を見せられたときに、真っ先に母と別れた場所へ行ったことから、やはりベルの心にずっと引っかかるものがあったことが分かります。

(もしかすると、ベルがバラをねだったことや、ベルの父親が盗むまでしてバラを持って帰ろうとしたこともここに関係するかもしれません。)

 

野獣くんの過去とその影響は、はっきり説明されています。

母を幼い頃に亡くし、父から甘やかされた結果、現在の野獣くんの性格になってしまった。

 

ここで、家族が関わる野獣くんの問題を解決に導く、そして、美女と野獣のストーリーを支配している(!)魔女について触れたいと思います。

魔女さんは、王子を野獣の姿に変え、しかも関係ない家来まで家具にし、さらには、バラがすべて落ちたにも関わらず、野獣くんを復活、さらには人間の姿にまで戻します。(このシーンを見たとき、なんでそうなるの!!!!と思いました(笑))

そんなこのストーリーを動かしている魔女ですが、ほとんど何もしゃべっていません。

見終わってから一番気になったのはやはり魔女でした。あいつは誰なんだ。

私は、魔女は【野獣くんの亡き母親】ではないかとみています。そうすれば、魔女の理不尽な行動や何もしゃべらない理由が説明できそうです。

 

野獣くんの亡き母親は、自分の死後の野獣くんの成長を心配していました。野獣くんは王子という特権階級であるため、野獣くんに成長のきっかけ、試練を与えるような人はいません。このまま、野獣くんが王様になってしまえば、マリーアントワネットみたいな酷な最期を迎えてしまうかもしれない。そこで、亡き母親は魔女となり、野獣くんに直接試練を与えます。愛し愛されるようになるまで野獣の姿のまま!しかもタイムリミットあり!

 

あんな山奥の、忘れられた城にやってくる人はなかなかいないことでしょう。ベルの父親が城にたどり着くキッカケとなるのは木に落雷し、道を間違えたからでしたが、もしかすると、亡き母親である魔女が人を選別していたのかもしれませんね(笑)

 

魔女が関与するシーン2は、ベルの父親を救うシーン。まあ、ここはそんなに重要なシーンではない&解釈の幅が広くなっちゃったので省略。

 

魔女が関与するシーン3は一番最後。魔女は、時間切れ&銃で撃たれて死んだ野獣くんを復活させます。このシーンで「ええええ!なんでえええ!???魔女は何がしたいんや!!!!」と私は驚きました!ただ、今考えるとこのシーンこそが魔女は野獣くんの母説を裏付けるものとなります。魔女が唐突に、ベルの涙に感動したとも思えませんし、魔女が野獣くんの母親だと考えた方がこのシーンはシックリきます。というよりそれ以外考えられない!

母の陰の支えにより、母の死以降うまく成長できていなかった野獣くんはは無事一歩成長しましたとさ。めでたしめでたし。野獣くんの母親による、町一帯を巻き込んだ壮大な野獣くん更生作戦を私たちは見ていたのかもしれません(笑)

 

こうして見ていると、野獣くんもベルも、成長というよりも、成長を阻害していたものを取り除いた、成長の種がまかれたといった方がいいかもしれませんね。

 

(この考察で母親を重きにおいたのは、私のマザコンのようなものが大きく影響しているなあと思います。)

 

 

 

 

 話は変わって、ガストンの死についても少し。

ガストンが橋から落ちるシーンは、ショックでした(´;ω;`)

思わず耳と目をふさぎました(´;ω;`)

ディズニー事情はよく知らないのですが、ディズニーがあんなにハッキリ死を描くとも信じがたいので、現実逃避的な考察を。

 

ガストンは死んだのではなく、野獣くんと同じく、忘れ去られただけなのだ!!!と私は主張したい。まじで!

ガストンも野獣くんと同じく強烈な面食いです。(いや、面食いが悪いわけではないと思うけど(笑))さらに、フィナーレの舞踏会で、ガストンをあれだけ慕っていたルフウが満面の笑みで踊っています。これは、野獣くんやその城の存在とともに忘れられてしまったように、ガストンもみんなに忘れられる魔法をかけられたのではないか!!とやや強引ながら、そう考えます。そしてもう1人の野獣、ガストンも人間になっていくのかもしれません。

ディズニーのエイプリルフールネタである「俺様と美女」の公開もいつかあるかもしれません(笑)

俺様と美女|美女と野獣|ディズニー公式

 

 

最後に感想。人間味あふれるルフウが好きでした。あと呪われた食器たちが家にきてくれないかなあ。