合理的配慮ユーザー対談 vol.1

合理的配慮を利用しているけど、なんだかうまくいかない。そんな二人がつらつらおしゃべりしてみました。録音音声も公開中!

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まずは自己紹介「どういう風に合理的配慮使ってる?」

Aska 今回話すことになった経緯は、先日文鳥さんと会ったときに、合理的配慮をお互い使っていることが分かったのと、いろいろなことでモヤモヤしていて、合理的配慮との付き合い方よくわかんねえってことが共通点を知って。しかもそういう話題を見聞きすることもないし、喋りたいし折角だから残したいねってい感じで今回に至りました。

文鳥 全く完璧。すばらしい(笑)

Aska じゃあ、自己紹介しよっか。ここでの名前と合理的配慮とどんな関わりがあるかとか、なんでもオッケーです。まあ、なんでもっていうと難しくなりそうだけど。じゃあ、気が向いた方から喋ろうか。

文鳥 文鳥です。合理的配慮との関わりは、主に学校の方で、学業の場面で使っているという感じです。どういう風に使うようになったかというと、大学に入って、早々に勉強が手につかなくなって、なんで手につかなくなったのかはちょっとよく分からないんだけれど…。それで、合理的配慮の担当の、教員と学生の間を取り持つっていうのかな、そういう部署があって。私の学校に。特別学習支援室っていう名前なんですけど。そこにスケジュール管理とか、優先順位のつけ方とか、色々溜まってくるタスクに優先順位つけたりっていうのをやったりしてました。で、割と早いうちから「次の学期は合理的配慮出さないか」って言われていたんですけれども、自分の困りごとっていうのが病気とか障害っていう名前がついていなかったから、はじめのうちはそういう風に言われても拒否したり、それでもやっぱうまくいかなくて、結局使うことになったんですけれど、それでも抵抗感があったりとかしました。やっと最近、自分の困りごとは病気とか障害とかいう名前はついていないけれど、自分ではコントロールが難しいっていうのが分かって。確かに困ってるから、使ってもいいんじゃないかっていう風に思えるようになって徐々に受け入れられてきたかなという感じです。

Aska Askaです。合理的配慮は大学の単位取ることに関して使ってて、どういう経緯で使い始めたのかは忘れちゃった。意外と忘れるもんだね。

文鳥 そうだね〜。

Aska 今合理的配慮は、何に使ってるかな。ほぼほぼ大学行ってないから合理的配慮どんな感じで使ってるのか分からなくなっちゃった。えっと…メモあるはず。ちょっと待ってね(メールを漁り始める)。でも、合理的配慮を使うことを受け入れることについては、うーん、自力で超大量に単位取れた時もあったから合理的配慮使わなくても何とかなるんじゃねって気持ちもあったんだけど、最近はやっぱ自力では無理だわみたいな気持ちもどっちもあるって感じかも。頑張ればできるんじゃねみたいな。がんばってできたときもあったから。でも今は投げやり状態っ。(単位取るのもう)無理っしょって感じだね。

文鳥 うんうん。

Aska お互いの自己紹介でもっと聞きたいこととかあれば。答えたくないことは答えなくていいんだけど。

文鳥 調整っていうのは色んな事やってもらってるって言ってたっけ?

Aska そうね、いろいろやってもらったかも。レポートの期限を延長してもらうとかもあったな。授業出てないときに、レポートとか試験の情報が出たらあれだから、それに対応してもらうとかもあったな。文鳥さんはどう?

文鳥 一応(合理的配慮を)使ってる、使ってるっていうか、合理的配慮として出してるのは授業の科目の担当の教員の人へ「こういう学生さんがいます」とお知らせしてもらうのと、あと、うーん、あれだった、期末試験の〆切を延長してもらって助かったのもある。春の方に受けた授業で、堀江有里さんの授業だったんだけど。堀江さんは「絶対締め切り過ぎたら何が何でも原則受け付けませんから!」みたいな感じだったんだけど、私が「合理的配慮使ってるんですけど…」って言ったら、「はいどうぞ~」って言って(笑)。すんなり柔軟に対応っていうか〆切伸ばしてくれて、首の皮繋がったなって今思い出した。

Aska 使ってみるもんだね~。

文鳥 そうだね。他の授業でも課題の〆切をのばしてもらうっていうのがあって。だけどそれって、それが合理的配慮なのかどうかわからない。

Aska どういうこと?

文鳥 他の学生さんにも同じようにやってるのか、私の事情を鑑みて「あなたにはそうした方がいいね」ってことで個別に調整して期限を延ばしてもらったのかどっちか分からないけど、だけど延ばしてもらうっていうのはよくやってもらったな。

Aska 聞くのけっこう勇気いるからすげえって感じ。それぞれの困りごとに合わせてどういう対応してもらうか考えたりとかするんだけどさ、他の例とか知りたいよね。「こういう対応も可能です」とか「こういう困りごとがあって」みたいなの知りたくねって思った、今。

文鳥 そうだねそうだね。

障害者運動のたまものでもある合理的配慮、使い方がわかんねえ

Aska 急に「ほい、合理的配慮だよ!使ってね!」って言われてもどうしていいか分かんねえみたいなのあるよね。

文鳥 そうだよね。今までの障害者運動の活動家の人のたまものである合理的配慮、手元にあるんだけど使い方がわかんねえみたいな(笑)。

Aska たしかに(笑)

文鳥 分かんない(笑)。武器っていうか、強いツールを手に入れたけど使い方がちょっと素人にはわからんみたいな。

Aska そうそう。うまいこと言った(笑)。ホントどう使っていいか…持て余してる感あるよね。

文鳥 なんか腑に落ちない、しっくりきてない。フィット感がないみたいなのある。自分のことなのに(笑)。

Aska 使えるのはいいんだけど、使い方がイマイチ分かんない感じだよね。上手な使い方わかんない。自分の場合は利用するにあたって面談して「こういう困りごとあるんだったらこういうのどう?」とか「こういうの困ってるよね」って言ってくれる先生がいるんだけど。でもそれでもイマイチ上手に使えないところがあるんだよね。文鳥さんはどういうシステムで使えるようになってるの?

文鳥 私の学校の特別学習支援室ってところが、障害のある学生さんに合理的配慮の調整担っててて、障害みたいな名前がついてなくても私みたいにやってもらってる人もいるらしいんだけど。それで、そこの職員さんが、先生ではないんだけど職員の人がいてその人と面談して、それで最初の方は支援申請書みたいなの書いて、「こうこうこういう支援、サポートが欲しいです」って言って、それで使ったかな。そこの職員さんが、先生にお知らせとかするらしい。

『努力してるけどできない』ってことを強調されることのもやもや

Aska 事前に挙げてた気になりトピックから喋ってみる?

文鳥 うんうん。わたし、Askaさんが(事前にドキュメントに)書いた「『努力してるけどできない』ってことを強調されることのもやもや」っていうの聞きたいな。

Aska 「合理的(!)」って名前がついてるだけあってさ、「ちゃんとやってるけどできないから使います」というか、なんかこう「怠けてるわけじゃない」っていうのをめっちゃ強調されてる感じがある。職員さんから「怠けてるわけじゃないんだよね」って言われることがあって、「いや、でも怠けてる感じもするんだよなあ」みたいな(笑)。そこの境目をさ、くっきり分けようとする感じがすごい苦手だなって。うまく言えないけど、これがすんなり使える人だったらさ、この調整を使ったことで余裕で授業に参加できるようになりますって感じだったらさ、例えば「ノートテイクをしたら余裕で授業参加できます」みたいな効果がはっきりわかったら、怠けてるわけじゃないっていうのが分かりやすいけど、自分の場合は調整を使ってもイマイチうまくいかないみたいなところがあって…。怠けてる気もするしなあ、しないしなあ、みたいな。でも、怠けている訳じゃないよねって言われることで、職員さんに言いづらくなることもある気がするなあって感じ。うまく言えなかった!

文鳥 もどかしい感じがあるよね。このもどかしさを語る言語の欠乏(笑)。

Aska そうそう(笑)。話すことないよね、なかなかさ。合理的配慮を使うときの話し合いだったらさ、合理的配慮を使うことにフォーカス当てるじゃん?だから別の話題はちょっと…って感じじゃん?別の話題はうまい感じに流されるっていうか。だからそういう話題をできる相手がいないから思考が進まないっていうのはあるよね。

文鳥 そうね。こういう風な話はあんましないかもね。

Aska 文鳥さんは「『努力してるけどできない』とか『怠けてるからできない』の境目をくっきり分けようとする感じ」に共感するところある?

文鳥 なんかね、Askaさんとは違うかなって思うけど、なんかわかる。すごい重要なところを言い当ててるんだと思う。重要な化石のある断崖絶壁みたいなところにAskaさんと二人で辿り着いて、「やったね!」って言ってるんだけどあの化石どうやって掘り出そうかみたいな。何て言えばいいの、どうやってそこに辿り着いて、どういうツールであれをうまいこと掘り出せばいいんだろうみたいな(笑)。

Aska そうだよね(笑)

文鳥 特に弱ってるときって、私のできなさについては、落ち込んでるときのできなさって、内面が朽ちて言ってる感じがある。自分の落ち込んでるときとか、内面が朽ちて行ってて、朽ちることによるできなさっていうのは怠けっていうか…言葉にできないな。出来ないときは大体落ち込んでるときなんだけど、落ち込んでるときは内面から朽ちて言ってる感じがして、ハッキリした自分とかないような感じがして。当然努力とかそういう気持ちにはなれないわけよ。改善とか。だから…何言ってるんだろう私。(文鳥後記:『ぼそぼそ声のフェミニズム』中の「『愚かさ』『弱さ』の尊重」が念頭にありました。うつのときは内面が「朽ちて」いって自己決定できる自己がどこか揺らぐよね、しないとできないの判別は難しいよね、みたいなこと栗田さんは言ってた気がする。うろ覚えですが)

Aska 全然ぐちゃぐちゃな語りでいいよ。

文鳥 だからなんというか…。何言おうとしてるんだろう、私。もどかしい感じがあるな。

Aska 朽ちていってる感じがして、自分じゃない感じがして、頑張る気もしない感じがして…

文鳥 なんかね、自分じゃない感じっていうか、努力とかコントロールとかできない感じかな。そもそも努力するっていう意欲が起きないところにいるときが多いから、その時のできなさをカバーするために合理的配慮を出すじゃんか。そういう時に「ただの怠けじゃなくて権利なんです」みたいな風な感じで合理的配慮を出すけれど、一方で怠けてるんじゃねっていうか…このもやもやが言葉にならない。

Aska でもちょっと思うのは、「怠けさせてよ~」って感じじゃない?(笑)。怠ける余地ほしくね?

文鳥 それなのよ。怠ける余地ほしい。

Aska なんだろうね。でも、この「努力してるけどできない」って強調されるモヤモヤめっちゃあるなあ。「(あなたは)怠けてるわけじゃない」って伝えることで、面談してる先生的には自身の特性への理解を深めてほしいみたいな意味合いがあるのかなって思うけど。…でも、怠けたいじゃん(笑)。

文鳥 そうだよね。

Aska だし、怠けちゃいけないっていうのがプレッシャーになる感もある。怠けてないっていう証明が自分の中で必要みたいなさ。

文鳥 そうそう、そこの線引きができないっていうのはあるよね。怠けてるのかなんなのか。

Aska 別に、怠けてるか休んでるかくっきり分けられるわけじゃないんだよね。

文鳥 それいい言葉。休むのは怠けだし。

Aska 休むの苦手なんだけどさ、「怠けていいじゃん」みたいな気持ちになれないことがある。ぐったりしてるけど頑張んなくちゃ~みたいな気持ちのときとかさ。休めばいいはずなんだけど、怠けてるんじゃないか自分はみたいな。そこで「あなたは怠けてなくて鬱でぐったりしてるだけですよ」っていう説明も一つの説明ではあるけど「怠けてもいいんですよ」って言ってもいいはずじゃん。でも、合理的配慮は「あなたは怠けていて、怠けてもいいんですよ」って言ってくれない感じがする。

文鳥 そうだね、そうだね。頑張るのがデフォルトみたいな感じの(笑)。

Aska そうそう(笑)。でも大学の単位取るのってそういう側面あるのかなあ。みんなさあ、割と怠けてるよね。授業聞いてねえしさ、それで割と単位取れてるよね。学期の最後に頑張るみたいな感じだからね。

文鳥 うーん。

合理的配慮は誰にとって「合理的」なのか

Aska そういえば、合理的配慮の「合理」怖いみたいなツイート前にしてたなあ。

文鳥 そうだね。どういう風に怖い?

Aska ツイートには、誰にとっての合理的なんだろうっていうのはモヤモヤするって書いてた。「こういう困りごとがある」ってハッキリしてる人にとってはかなり合理的なんだと思うけどさ、これさえクリアすれば多くの学生と同様の就学効果を得られるっていうのがはっきりしてれば合理的なんだろうけど、自分の場合さ、これさえクリアすればいいみたいなのがなさそうだから、合理的が怖く見えちゃうっていうのがあるかも。そう思うと、合理的って言葉の合理性って、システムを動かす側の人にとっては合理的で、ユーザーにとっては合理的ではないって感じがしてしまう。

文鳥 面白い。Askaさん書き物してくれないかな。

Aska (笑)。

文鳥 長く考えたい話題。合理的って誰にとってって。

Aska 書くの苦手だから、ここで喋ってるところはある。

文鳥 対談は対談で違った可能性があるように感じる。

Aska たしかに。この前モヤモヤすること書こうと思ったんだけど、「たしかにこれはこうなんですけど、たしかにそうなんですけど、でも、でもちょっとモヤモヤしてるんですよ~💦」みたいな言い訳めっちゃして書けなくなっちゃうなって思った。対談だったらひょいって言えちゃうところある。文鳥さん、ここまでの話で思ったことない?

文鳥 「努力してるけどできない」と「怠けてるからできない」の境目をくっきり分けようとする感じ、『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』だったかな。どんな文脈でその言葉がでてきたか覚えてないんだけど、病気・障害だったら努力できないのは仕方ない。で、病気や障害じゃなかったら仕方なくないから頑張りなさい、というかコントロールしなさいみたいな。そういうのあるじゃないっていうか、Askaさんが言ったこともそういうことかな。…っていうのを批判する文章があったのを思い出したな。

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Aska たしかに。「病気であるか障害であるか」どうかっていうのと、「努力してるけどできない」と「怠けてるからできない」と重なる感じするよね。

文鳥 パラレルな感じあるよね。

Aska ずっとついて回るよね。「ホントは頑張ればできるんじゃないか、私は」みたいなね。そこをずっと追求させられる感じがするなあ。

単位が取れた時ってどんな状態?

文鳥 Askaさん単位がスムーズに取れたときがあったって言ってたじゃない?そういう配慮が使わなくてもってこと?

Aska そうそう。

文鳥 その時の状態と今の自分って違うと思ったりする?

Aska わかんないんだよね~。危機感を感じられるかって問題かなあとも思ってたけど。その時は単位取れないとやばいっていうのがあって、がんばるぞってなってたんだけど。うーん、わかんないかも。

文鳥 そっか。難しいよね。何が自分のできる/できないに影響してるのか分かんない。

Aska 文鳥さんは単位取れる時と取れない時で違う?

文鳥 単位取れた時は、落ち込むことが少なかったかな。少なかったというよりは長引かなかったかな。私は今まで一番単位取れて学生生活感が感じられたのって今年の春から初夏にかけての学期だったんだけど、そこでは寮生活していて、喋る人がいたことと、やる家事が尽きなくてそれでいい感じに手を動かしたり足を動かしたりしていたかな。

Aska 歯車が回ってる感じだね。

文鳥 歯車っていいたとえだね。複数あるじゃん歯車って。それが回って動いてるからね。そうだよね。

Aska 文鳥さんの話聞いてたら、単位取れてた時友達いたなって思った。大学内にね。

文鳥 いいものたくさん思いつくな、Askaさんと喋ってると。

Aska 人と喋ると違うね。

文鳥 「病気・障害だったら仕方ない」「努力してるけどできない」だったら仕方ないけど「病気・障害でなかったらがんばれ」「怠けているからできないんだ」みたな、これ掘り出したいよな。化石みたいに掘り出して、考古学者と探検家の、Askaさんと文鳥さんがどこどこで見つけた化石ですって言って、綺麗に掘り出して展示してみんなに掘り出してもらう(笑)。

「ノンバイナリーじゃないかもしれない」という悩みとの類似

Aska この軸色んな所で発生してる気がしててさ。全然別の例なんだけど、昨日ね、吉野靫さんとペス山ポピーさんの対談イベントに参加したのね。事前に質問を募集してたらしくて、その中でも一番きた質問が「自分がジェンダー規範にモヤモヤするから、あるいはミソジニーがあるからノンバイナリーかもしれないと思い込んでるだけなんじゃないか悩んでる」みたいな内容だったらしくて。それもさ、ピュアな「ノンバイナリー」みたいなのが存在していて、ジェンダー規範にモヤモヤしてることはノンバイナリーである理由にならないとかさ、ミソジニーを持っているから女性じゃないと思いたいと思ってるみたいなものを排除した先に「ノンバイナリー」っていうピュアなものがある前提がある感じなんだろうけど。「怠けてるからできない」っていうロジックもピュアな病気とか、ピュアな障害みたいなのがある前提な感じがして、「ノンバイナリー」の件とパラレルな感じしない?

文鳥 おー、おもしろい。もう一回言って、それ。すごい。

Aska 言えるかな(笑)。ピュアな○○みたいなのを求めて、そうじゃない可能性を排除していかないといけないみたいなのがさ、ありがちだなって思った。

文鳥 そうだよね。なんて言ったっけ、「ピュアな病気とか障害っていうのを、ピュアできなさっていうのがあって、それを追い求めていく」のと「自分は他の人と同じように出来ていくんじゃないかっていうのを追求していって、ピュアじゃないものを劣位に置く」感じかな。

Aska そんなな感じかも。アイデンティティとかでもそういうもの発生してるよなって。

文鳥 ピュアなものって実際ないんだよね。頭の中ぐらいにしか(ないよね)(笑)。

Aska そうだよね。だからさ、多分さ、病気とか障害とか「ノンバイナリー」みたいなカテゴリーとかも、カテゴリーの作り方の発想がどこかでうまくいってないからピュアなものみたいなのが発生するから、どこか考え直さないといけないんだろうなって感じがする。

文鳥 そうだよね。実はこれから予定が入ってて、これで終わらないといけない。

Aska またやろっか。

2人 ばいばーい。



【要約】「トランス男性たちのセクシュアリティにまつわるナラティブ実践」①導入

▽テキスト

J.R. Latham, 2016, Trans men’s sexual narrative-practices: Introducing STS to trans and sexuality studies

 

▽読書会の経緯とお誘い

 社会様が前提とし、押し付けてくる性別に何かしらの戸惑いがあるとは少なからず言えるが、それ以上自分自身のことをどのように説明していいか分からない。でも、説明できないために嫌な思いをしがち。より息がしやすくなるには、どのようにすればいいのか、弱った弱った。......というような話をゲイル・サラモン『身体を引き受ける』読書会でいりやさんに話したところ、上記の文献を紹介してもらった(と記憶しているが、記憶違いだったらごめんなさい)。

 そんなわけで、2021年11月28日現在、上記文献の読書会をぼちぼち進めています。読書会は、英語に慣れない人たちでえっちらほっちらその場で読み進めています。興味のある方はぜひお問い合わせください。とりあえず様子見の参加も大歓迎です。

 内容が面白かったのでメモがてら、読み進めたところまで要約していきます。大学サボり気味&英語慣れない者がなんとか読んだ結果なので、間違いも多いはずです。間違いや要約でおかしいところがあれば、是非教えてください。

◯読書会に関してや、当記事へのコメントなど連絡先

・メール:uncannyvally_v★gmail.com

Twitterアカウント:不気味の谷 (@uncannyvalley_V) | Twitter

 

 

J.R. Latham 「トランス男性たちの性的なナラティブ実践—トランスジェンダースタディーズやセクシュアリティスタディーズへのSTSの導入」

 

▽論考全体の要旨

 トランスジェンダーの人々が性的な交わりにおいて自己嫌悪に充ちているという医学的な想定は、トランスの人たちの身体やセクシュアリティに関する様々な経験を考慮に入れ損ねている。この小論では、ナラティブを考察することを通じて具体的な実践に注目する科学技術スタディーズ(science and technology studies, STS)の最近の研究を拡張し、トランスジェンダーセクシュアリティを位置づけるための新しいパラダイムを論じる。トランス男性らの自伝的な語りを分析し、トランス男性らが性的主体として自分自身(と男性性を振舞うこと)を理解する方法の一部を紹介したい。

 

▽347~350ページまでの要約

 伝統的で医学的なトランスジェンダーの人たちに対する理解では、特に生殖器に対する嫌悪感から性的な心地よさを経験しないとされてきたが、実際には必ずしもそうであるとは限らない。

 筆者は、トランスのセクシュアリティにまつわるグレーゾーンが広く残り続けているのは、「身体」、特にトランスの身体にまつわる伝統的な考え方が不適切であるからだと主張する。この小論では、(身体のような)対象や「実在 “reality”」を単一ではなく多として再考する「科学技術スタディーズ(STS)」は、トランスのあり方の複雑さをより真剣に受け止めることができると論じる。STSの革新的な研究方法と考え方を用いて、医学的な論理を取り消し、トランスの生を理解するための新しいパラダイムを論じる。筆者が「ナラティブ実践 “narrative-practice”」と呼んでいるものを通じて、トランス男性が自身の男性性を理解する仕方の一部を紹介する。


▽もっとざっくり説明してみる

 今までの伝統的な医学的なトランスジェンダー理解では、トランスの人たちは性器への嫌悪感によってセックスで心地よさを感じることはないとされていた。しかし、実際は必ずしもそうではない(下記、当事者の手記を参照すべし)。そのような齟齬が発生している現状を打破すべく、筆者は科学技術スタディーズ(STS)を導入し、トランス男性のナラティブの一部を分析する。(次の節に続く)

 

▽本文で引用されていた文章の訳

わかるわ~と思ったので、取り上げてみました。

 

347ページ

セックスしているときほど、自分自身をより人間だと、この肉体を感じたことはない。(中略) 複雑になった身体が触れ合うことで、私たちは生きていくのに十分快適なかたちへと粘土のように形づくられていく。セックスはジグソーパズルのような私の身体を、繋ぎ合わせる接着剤だ。相手の接触に身を委ねることは、虐待と性別違和によって失われた身体を私に取り戻してくれた。ハッキリ言うなら、それは私を本物にしてくれた。(Lowrey, 2001:96)

 

 

348ページ

「(性別適合)手術前」にセックスライフを送ったり、性的快楽を得たりすることは、性別違和感が「治った」と見なされるか、そうでなければ、トランスセクシュアルであるために十分な身体嫌悪を持っていないに違いない証拠だとされてしまう。(p.131;強調は筆者が付け加えた)

 

テストステロンを処方してもらうために、医師に嘘をつくことさえしなければならなかった。どうしてもほしかったテストステロンが処方されないことを怖れていたので、医師に嘘をつかなければならないと感じていた。人工ペニスがほしいふりもした。なぜなら、医師は私がペニスのない男性であることは認めるが、ペニスをつけたくない男性であることは認めなかったからだ。私はペニスが欲しいと思わなければならないと感じた。(2008: 78-9)

 

 

349ページ

私の性器はジェンダーをもたず、それはただ単に性器であるだけであって、私の身体の一部である。そして、私は男性であるから、私の性器は男性の身体の一部であると理解するようになった(Laird, 2008: 78)

日記20211122、後半はグチ。

前回の日記を書き終えたその日、頭が興奮して眠れなくなってしまった。もう夜には書くまいという反省を思い出しつつ、今日も日付が変わった後に書き始める。

日記を書こうというときに思ったのが、私は箇条書きなら文章を書き始められるかもしれないということだ。頭の中では色々な出来事がごたまぜに絡まり合っていて、何からけばよいか分からなくなり手が止まってしまう。箇条書きは文章じゃないみたいなことを教え込んだ奴は誰だ、出てここい。箇条書きで説教してやる。

そんなわけで最近の振り返りを兼ねた日記。

①誕プレ喜んでもらった

誕プレとして、その人をテーマにしたzineを友人と制作した。あまりにもふざけた内容で前日の夜ひどく不安に駆られたけれど、マヨネーズ氏はすごく笑ってくれたし喜んでくれた。このzineは不気味の谷にも置いてるので読みに来てね。

②人んちにいた

今週は割と頻繁にマヨネーズ氏の家に入り浸っていた。人んちって居心地いいよね。

③不安

生活保護で生きていこうと一時は決めたものの、将来の展望が変わって生活保護だと思うように生きていけないのではないかと不安になり始めた。かといって、安定して働ける気もしないし。。まあ、その場のノリと勢いで生きていこう。

④親戚づきあい

今年の前半にバックレたバ先に親戚がいた。小学校低学年のときに会ったか会ってないかくらいの面識だが、向こうは私に親しみを感じているらしく、「そのうちご飯行こうね」などと誘われていた。あと、私の母親は死んでいるのでその代わりに尻を叩いてやろうと考えてくれているらしい。まあ、そういう人に救われることもあるんだけど、今の自分には関わるのちょっとしんどい人だった。

ちなみにどうでもいいが、私の母親が死んでいるとわかると「母親代わり候補」を名乗ってくる人が多くいる。同級生の親に、先生に、友達に、先輩に、後輩に、親戚に。あと、葬式の時は私に「お母さんの代わりに~~しなきゃね」みたいなことをいろんな人から言われたし(弟はそういうこと言われたのだろうか)、誰かさんからは母親の服を着させられそうになった。あと、ボケてる祖父は私のことを祖父の子ども=私の母親だと思い込んでいる。私も、その場にいた誰も訂正しなかった。死んだ人間の代わりを1人が担おうとする/させられるってなんだよ。くそ。「お父さんはお母さんがいなくて大変だね」となぜか私に言ってくる奴もいる。家族のパワーバランスが変わる経験は、おれだって大変だったよ。それに...(ここから先は何も書きたくない)。

それはともかく、バイトばっくれてから半年が経とうしている最近、別の親戚からラインがあった。バックレたバ先にいた親戚をAさんと呼ぶなら、「Aさんがなすとご飯食べに行きたいって言ってるからLINE教えていい?ご飯奢られてきなよー」という旨の連絡がきたのだ。なぜ今になってという感じだし、バックレたことなんか言われそーっていうのと、今の暮らしを根掘り葉掘り聞かれてなんか言われそーっていうので萎えてる。友人たちにその話をしたらいつの間にか涙目になっていた。でも、ご飯は奢られたい。。てか、親戚中に私のバックレ情報が流れている気がする。。偶然なのかなんなのか、弟から久しぶりにご飯のお誘いがあった。「さてはお主、スパイであるまいか?」という不安がぬぐえないが、弟のことは好きだし、うかうかとオッケーする。何事も断れないタイプなので親戚Aさんの件もオーケーしてしまうのだろう。。ボロボロになったときは慰めておくれ。。

親戚づきあいは苦手だ。ガキンチョは何かと性別について聞いてくるし、それに耳をそばだてる大人の親戚の気配を感じるのも嫌だ。何か自分について説明すればいいのだろうけど、嫌だ。めんどくさい。それにどう説明していいのかもわからない。なんかよく分からない誤解をされて余計にこじれるもの面倒だ。話しても嫌な顔なんてされないだろうことは予想がつくけど、こいつもしかしてトランスなのではと疑われている程度の曖昧なままをキープしていたい。これが私の精一杯。

公的機関からほとんど無理やりカミングアウトさせられた相手である、親族Bはアウティングをしているっぽいので、何か情報が回っているのかもしれない。被害妄想だといいけど...。「私は○○です」と名乗る「カミングアウト」とやらにいい思い出がない。何か思い出したくない記憶がよみがえりそうになっていて苦しい。思い出せさえすれば、案外大したことないことなのかもしれないけど、その勇気がないので、今日の日記はこれくらいにして布団にこもる。

日記20211117

今日から日記を書いてみることにした。友人たちの影響がデカい。

今日はほぼ寝ていたので、最近の出来事でも書いてみようと思う。

......と思ったが、最近の出来事が頭の中でぐちゃぐちゃになっていてうまく引き出せない。時系列は気にせず、箇条書きで書いてみる。

 

1.最近がんばっていること:誕プレ制作

詳細はまだ秘密だが、すげー自分勝手な恨みから悪趣味なものができあがっている。共同制作している友人はプレゼント相手が傷つかないか不安な様子。一応、色んな人に確認を取ってみるつもりだ。絶対大丈夫だと思うんだけどなあ。既にプレゼント予告はしてあるが、中身は内緒にしている。「ヒントちょうだい」と言われて、ついついヒント出しすぎちゃった。最初はいい具合に謎めいた感じになっていたんだがなあ。。こういうのちょうどいい塩梅で我慢できるようになりたい。

 

2.タトゥー彫った部分が痛い

特に膝裏。歩き方が通常と違うスタイル。先日、マヨネーズ氏から「ペンギンじゃん」と笑われた。しばらくバイトできねーな。金がやばい。

 

3.不審な計画

昨日は友人たちと不審な計画をした。こちらはいつまでたっても公にすることはないだろう。あるいは、問題が露呈して、新聞やヤフーニュースの片隅で公になることはあり得る。まあ、そんな大それたことはしてないと思う。いたずらってテンション上がりますね、とだけ。共犯者になりたい方はいつでも連絡を。

 

4.「トランスジェンダーのリアル」読んだ

この冊子に登場する方に「ロールモデルっている?ロールモデルってなんだと思う?」と聞かれたことがある。そのときはたしか悩みに悩んだ結果、苦し紛れに「生き方を模倣する対象としてのロールモデルはいないけど、似た境遇の人が生きていることに励まされることはあります」というように答えた。周囲の人も答えに瀕していた様子で、「なすさんと同じ感じ」と答えていた気がする。

 

マイノリティのロールモデルが少ないと言われる。ロールモデルがいないことに起因する不安。それはマイノリティに限ったことなのだろうかという疑問はあるが、生まれたときに割り当てられた性別ではないあり方で生きようとするとき、たしかに自分で道を切り開いている感じはある。先人の足跡が見える場、つまり制度や体制が整っている場であれば、その足跡の上を歩くなり、それを手がかりに別の道を模索していけばいいが、なかなか先人の足跡が見当たらないときがある。そのときは、拙いなりに交渉して制度を作ってもらうなり、あーだこーだ言われて思うようにいかなかったりしてきた。まあ、大抵は黙り、我慢しているが。対人関係においても、自分自身がどうしたいか分からなくなっていく中、どのように振舞うか模索している。周囲の人たちとの関係性には、大きく先人たちの足跡が埋め込まれていると思う。

ロールモデルというよりは、歩きやすい道が整備されているかどうかと言った方がしっくりくるのかもしれない。そのようになりたいと思う人なんざいないが、いつの間にか、そのような人生を歩んでいるみたいなことはあるだろう。「ありきたりな人生を歩んでるなあ」とふと呟いた同い年の友人がいる。その人の人生にロールモデルがいたかは不明だが、とにかく歩きやすい道が整備されていたんだと思う。

そういえば、マヨネーズ氏との今後の関係性が一時期までずっと不安だった。マヨネーズ氏は来年度から少し遠くへ引っ越してしまう。しきりにロールモデルのなさを語っていた気がする。この件は、暫定的に将来についての物語を二人で話し合うことでなんとなく解決した(と私は思っている)。実際どうなるか分かんないし、大した拘束力のない「こうなればいいね」程度のわちゃわちゃした物語ではあるが、私の不安には効果てきめんだった。

 

繰り返すが、ロールモデルみたいに真似したい対象ではないにしろ、ある境遇の人が生きている/生きてきたというその事実には勇気づけられることがある。元気な時は私の身長以上あるぼうぼうの草むらをかきわけて生きてやろうと思えるのだが、なかなかその気概は続かない。仕事が続かず職を転々としている人や生活保護ユーザーをネットで見かけることがある。最近はそのような人たちに勇気づけられている。元気のない私の前にも、道がある。そう思えてくる。

壁打ちしんどい日記

バイトへ行くかと思い立ち、1階まで降り原付に乗ろうとしたら、ネコのうんこが座席にどっしりついていた。しかも下痢気味うんぴ。明日は平日なので、管理人さんが掃除してくれるだろうか。カラスのフンは毎回掃除してくれていたみたいだけど、あのサイズのうんこはさすがに躊躇するだろう。どうなることやら。

 

ここ数日、いや昨晩からかな。しんどさがきている。連日で泣いている。自分の行動に感情の意味付けができていない。何が苦しくて泣いているのかよく分からない。頭が混乱している。いっぱいいっぱいだ。

 

昨晩は、亡きMのことを思って泣いていた。死んでから10年が経とうとしているが、たまにMのことをあれこれ思う。正直、Mの死を悲しんだことは一度もない。ただ、たまに思い出して「もし今生きていたらなんと声をかけてくれただろうか」だとか「どのような関係性を築いていただろうか」「トランジションはどのようになっていただろうか」などということを考えたりする。そしてたまに泣く。「Mの死を悲しんだことは一度もない」と書いたが、実は死んでよかったとすら思っている。しがらみが減ることは私にとってはいいことでもあった。生きていたらそれはそれでいい関係性を築けていたかもしれないし、死んだことがきっかけとなって起こった暴力だって経験せずに済んだかもしれない。それでもやはり死んでよかったと思う。死んでいなかったら今の自分はないからだ...と書きかけて、今の自分は苦しいなりに人生のようなものを引き受けているのかもしれないと気づく。

 

今日は、親戚の訃報を聞いた。会う頻度が極端に少なかった人なので、どう受け止めたものか困惑した。我の強いちょっと怖い人だったような気がする。どんな人だったかあんまり記憶にない。そういえば、たしか数か月前くらいに別の知り合いがなくなった。その人とも疎遠だったが、随分後になってFacebookメッセンジャーに「近くまで来ているから会わない?」という連絡がきていたことに気づいた。それを見たときの気分はうまく言葉にできない。正直大して知らない人ではあるので、ショックを受けるとか後悔するというようなことはないが、死んでしまった人からきていた連絡に何とも言えない気持ちを味わう。うまく言葉にできないことばかりだ。

 

もう1件、今日の僕を振り回していたことがある。マヨネーズ氏との関係性についてだ。マヨネーズ氏は存命だし、プライバシーのこともあるような気がするのでぼかして書く。これで気持ちの整理ができるのかは分からないけれど。

発端は私がしたいことを相手に伝えて、それに同意してくれたところからはじまる。マヨネーズ氏は一度OKしてくれたけど、実際いろいろ試しているうちにやっぱり乗り気ではないかもしれない...…と考えているらしい。マヨネーズ氏は気持ちの整理中だと言っていた。他のときにもトラブらせてしまったこともあり、私の要望のために困惑させてしまっていることが苦しい。それに、なんというか相手の言葉をどのように受け止めていいか分からなくなってしまった。相手自身も自分の気持ちがあまり分かっていないみたいだから仕方のないことだとは十分わかっているつもりだ。しかし、OKしてくれたことが実は嫌だったり我慢させてしまっていたりするかもしれなくて、自分の人間関係に関する世界観の一部が崩壊しているような感じがする。これも苦しい。

また、私が要望したことがどうなるのか、相手はどのようなことを伝えてくれるのかも気になって落ち着かない。こればかりは相手の言葉を待つしかないのだが…。

(仮定的な)視線をなぞる

ふと、誰かの視線の先を探し続けている自分に気づく。自分の視線を誰かの視線に重ね合わせようとすることこそがそれを捉える数少ない手がかりなのだ。瞳孔に視線の先が映るように、視線の先には瞳孔の奥が映るはず。どこかでそう信じている。あるいは、そのようにするしかなかった。

 

何か思い出があるのなら、思い出すべき何かがあったのなら、こんなことはしなかっただろう。思い出に浸っていたかもしれないし、その人と他の人を比べて現在にうんざりしたり、喜びをもって報告したりするのだろう。そうやって偲んでいたのだろう。

 

そのようなものをもたない私は、視線の先を追いかけた。好きだったもの、見聞きしていたもの、過ごしていた場所、考え方。知っていることは限られるが、いや、限られるからこそ追いかけてしまう。例えば、Perfume。例えば、サカナクション。例えば、『銀河鉄道の夜』。私はこれらが好きであることになっているし、一時期は好きであると自分に言い聞かせ、そう言い聞かせている自分を見失ってあたかも好きであるように無理やり振舞っていた。無理やりだって?実際のところ、それらの一部はもはや好きになっているような気もする。この視線が私のものなのか、それとも追いかけている視線とついに重なって一体化したものなのかは分からない。追いかけていたはずの視線が混線してしまう。私が何なのか分からなくなってくる。これはひとりの人についてだけではない。色んな人の視線の先を追いかけ、追いかけ、追いかけまわすことで私の文化活動は成り立っている。

 

(仮定的な)視線を追いかけ続けるということ。それは自分自身の中にその人を呼び起こそうとすることだ。当然のように呼び起こすことには失敗し続け、追いかけ損ねた視線の残骸は山となって残る。そいつが噴火して飛び出した大量の噴石の一粒が、この俺ってわけさ。…それはさておき、頑張って視線を追いかけるほどに虚無感は大きくなっていく。視線の先を見つめすぎて私が何なのか分からなくなる契機まで経験しつつも、結局はどうしてもその人には辿り着けず、訳の分からないことに時間を費やしていることへの虚無感ばかりが募っていく。噴石の一粒たる私は落下した先で、身動きひとつ取れないまま風化していくのでした。

絞り出し・ひねり出し読書録はじめたい

ぼちぼちレポートを書いていて思うのは、とりあえず書き出してみなきゃ始まらないということ。最初から頭の中で作り上げようとするのは無理。とりあえず思いついたことを書きまくってみると、書きたいこと、私に書けることがなんとなく分かってくるらしい。もちろん事前にさまざまの情報を仕入れることも必要だけど、とりあえず書く、書く、書く。書いてみる。行き当たりばったりな気もするけど、それはそれで私らしい、と言い聞かせてみる。まあ、レポートも数をこなしてみれば自分のやり方が掴めて来るはず。遠回りな気はするけど、レポートの書き方本を数冊読んでも書けなかったのだからもう自分の足で右往左往するしかない。

 

本や映画なんかの批評とやらも書いてみたいけれど、レポートと同じく書きたいことが思いつかないが頻発している。このブログは必要性に駆られて衝動的に書いてきたけれど、ちょっと試行錯誤してみたい。カタルシスのためではない文章も書いてみたい。

 

え?書くことが思いつかない?まあまあ、落ち着いて。脳みそ絞り出して、なんとかひねり出して書いてみようぜ。