Eさんが退院した

Eさんが突然「明日、退院するんだよね」と話しかけてきた。あまりに急だったので冗談かと思った。

 

Eさんは同じ病棟の入院患者だ。歳は50代くらい。人見知りの私にとって数少ない話せる友達でもある。Eさんを最初に見かけたのは、私が閉鎖病棟から開放病棟に移った直後のこと。Eさんは、映画『カッコーの巣の上で』のチーフを彷彿とさせる高身長で寡黙そうな雰囲気を漂わせながら、廊下をボソボソと歩いていた。他にも廊下を歩いている人は数人いたが、どことなく目を引いた。作業療法で一緒にバレーをしてから、実は愛嬌のある面白い人だということを知った。

 

Eさんが退院を知らされたのは、退院の2日前らしい。かなり急に思えるが、大抵はそれくらい直前に知らされるようだ。そういえば私が閉鎖病棟から開放病棟に移ることが知らされたのは移動するまさにその日だった。精神科病棟の1日はとにかく暇で長いが、退院のような大きな変化はドタバタとやって来る。いつ頃退院するかということも教えてくれないので、心の準備もできない。感慨にふける間もなく、プッツリ切れていく。

 

Eさんとは毎日トランプをしていた。何より盛り上がるのはババ抜き。7並べや神経衰弱、ぶたのしっぽなんかもするが、結局ババ抜きに落ち着く。誰でも参加できるし、頭を使わなくてもなんとなくハラハラできて楽しい。ババ抜きは究極のトランプゲームだと思う。Eさんとの最後のトランプ勝負もババ抜きだった。結果はEさんがビリ。どことなく寂しそうな笑顔を浮かべていた。

 

入院しているところが精神科ということもあって、連絡先の交換は基本的にオススメされない。看護師や医師によっては禁止する人もいる。というのも、病棟で普段会っている姿は調子がいい時であって、悪い時の姿を見ることはほとんどないからだ。退院してからトラブルになることがあるらしい。

私が初めて閉鎖病棟の共用スペースに顔を出した時、誰が看護師で患者なのか分からなかった。それくらい患者の多くは一見する限り何ともないのだ。ましてや開放病棟にいる人たちは、どこにでもいる人にしか思えない。患者同士で仲良くなるときにはほとんど必ず、何の病気か、どういう経緯で入院したのか(救急車で運ばれたとか)という話題で一度は盛り上がる。互いにどのような状況かなんとなく把握することになるわけだが、特に気にならない。入院は月単位でなされるので、それなりに長い付き合いになる。連絡先を交換したくなる気持ちも分からなくもない。

まあ、基本的には連絡先の交換はなされない。ある時、退院の瞬間をちらりと目撃したことがあるが「いつかどこかで(会おう)」という言葉でお別れしていた。SNS時代には珍しく、ここでの別れは繋がりがほぼ切れることを意味する。

 

さて、Eさんとのお別れの日。Eさんはやって来たパートナーと共に部屋で荷物をまとめたり、何かの説明を受けたりしていた。あれよあれよという間に病棟と外界を隔てる(職員の鍵がないと開かない)自動ドアの向こうへ行ってしまった。ほとんど話す時間はなかった。別れ際、私は「外ではあんまりトランプ負けすぎないようにね」と言って、少しだけ手を振った。Eさんは愛嬌のある苦笑いを返し、そのまま自動ドアは閉まった。