「発達障害」への呪詛

高校生のとき、学校に行ったり行かなかったりしていた時期があった。
その頃に、周囲の大人たちから「お前は発達障害じゃないか」ということを何度も言われて、違和感ありまくりだった。

 

私は、特に計画性のなさに関しては、発達障害的な傾向があると思っている(医学的な診断はない)が、あらゆる出来事の原因を障害に帰すことは明らかにおかしい。


学校に行ったり行かなかったりし始めたのは、高2から始まった(ちなみに何度か家出をしたのも高2。家出についても言いたいことはあるがまたいつか。)。つまり、それ以前はほとんど遅刻したことはなかったのだ。遅発性の発達障害というのもあるという話を聞いたことがあるが、それにしても急すぎる。というか、なぜ発達障害原因説が持ち上がったのか、今考えるとよくわからない。(個人の特性が学校側が要求するものと合わなかったために、ストレスが溜まって行かなくなった、などなど障害を起因とする様々な理由は考えうるだろう。しかし私の場合、発達障害の特性以外に原因があるとはっきり自覚しているし、それらは4年経った今でもある面では引きずっている。)


周囲の大人は意識的にか無意識にか、私に発達障害を着せることで、ほかの要因から目をそらしていた、もっというと何かしらの責任(を負う可能性)や更なる大きな問題(が存在する可能性)から逃れていたのではないか。

 

(もし私が発達障害が主たる原因で、学校に行ったり行かなかったりしていたのなら、家庭や学校の責任はかなり軽くなるだろう。もちろん、サポートなどの対応を考えなければならないし、発達障害のある生徒が来れなくなる原因があったことについて責任はあるが、たとえば体罰や家庭内の不和が原因だった場合などを考えれば、学校や家庭の負う社会的責任は、そちらの方がはるかに重くなるだろう。)

 

学校での友達関係はすこぶる良好で私自身、とても楽しかったから、いじめが原因ではないし、発達障害しか思いつかなかったのかもしれない。私は行ったり行かなかったりしている理由は特に明言しなかった。

とはいえ、あまりにも発達障害の可能性を遠回しに、ときには直接言い寄られたのはとても不愉快だった。もっと他の可能性も考えてほしかった。そこまで要求するのは言い過ぎかもしれない。先生も忙しいし、個人の行動の理由なんて分からなくて当たり前。しかし少なくとも、行ったり行かなかったりしている理由を勝手に押しつけることはやめてほしかった。

 

 


もちろん、発達障害と診断され、合理的配慮制度を利用することで、才能を発揮できたりしてより楽しく生きられたり、また、社会のあり方が見直されたりするなど、「発達障害」という名前ができたことで得られるものはたくさんある。「名前はついていることが大切だ」とシン・ゴジラの大河内総理が言っているが、まさにその通りだ。「発達障害」という言葉が広まったことのメリットは大きい。

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発達障害なぞ嘘っぱちだ」と言うつもりは全くありません。

 

発達障害の診断の有無に関わらず、サポートを必要としているなら、サポートを利用できるようにするべきだとも考えています。診断は医療行為であれど、合理的配慮制度は医療行為ではありません。

 

ともあれ、「発達障害」という言葉によって、見落とされてしまうものがあるのではないでしょうか。
発達障害(かもしれない)者一個人を取り巻く、あらゆる問題の原因が発達障害にあるわけではない。複合的な原因であったり、全く他のことが主たる原因である可能性もありますよね。

 

日頃できていたかもしれないことが、心身の不調でできなくなることは誰にだってあるはずです。


そういう、ある意味で当たり前のことを主張したいのです。

 

 


追記:今読んでいる本に、上記の内容とすこーし関わることが書かれていました。長くなりますが、引用します。(当ブログをざっくり書き終えて、読みにくいところがないか、後で確認しようと思っていたところでこの本に出会いました。なんていいタイミング!)

 

 

 

 

障害は医療化されることになるが、そのことに疑問を寄せる者いない。胎児が障害をもっているかどうかの確定から、ディスエイブリングな状態におかれた老人の死まで、医師は障害者の生活に関与する中心人物である。インペアメントの診断、外傷を受けた後に医学的に状況を安定させること、ディスアビリティとは関係ない疾病の治療、身体的リハビリテーションの施療のように、医師の関与はもちろん至極適切なものもある。しかし同時に、医師は、車を運転する能力を査定したり、車いすの利用を指示したり、金銭的な手当の要不要を決めたり、どのような教育を受けさせるかを選択したり、働く能力とその潜在能力を測定したりすることにも関わっている。医師養成課程を修了して免許をもつからといって、こういう場面に関わるにあたって医師が最もふさわしい人物とはいいきれない。それだけではなく、理学療法士作業療法士保健師、看護師、教師までを含む、多くの専門家はすべて、医師がヒエラルキーの上位に据えられた組織のなかで働いているか、医学モデルにもとづいた言説のなかでそれぞれの専門的な実践をおこなっている。

 

”障害の医学モデルは臨床診断を過度に強調するが、まさにその特性のために障害者個人を部分的で抑制的に見てしまうようになる。
 生々しい経験としての障害を理解するためには医学的判断は必要であるが、医学的「事実」以上のものも必要である。医師が(治療が適当であれば)治療法を決める場合だけではなく、偶然障害者になった人の人生のあり方を決めるときにも、問題は発生するのである(Brisenden, 1986, p. 173).”


マイケル・オリバー『障害の政治』p95、96より