『話ベタですが・・・』こじらせ系話ベタがインターネットの片隅で吠える

本を読んだらブログを書こうと思いつつ、書けていない。一つは書くことが思いつかない。もう一つは、つまみ食い式に読んでいるので読み終わらないのだ。そうこうしているうちに返却期限を過ぎてしまう。あれに手を出しこっちに手を出す。そんな私が久しぶりにサラッと通読したのがこの本。

 

www.kawade.co.jp

穂村弘小川未明最果タヒ萩原朔太郎。エッセイから童話、緊張したときの生理学的なメカニズムや席のどこに座るかでタイプが分かるという怪しげな性格診断まで、あれこれ詰め込んだ話ベタな人に向けたアンソロジー(ということになっている)。ただし、ここに掲載されている作家はみな話ベタであるというわけではないらしい。気になるところだけ、つまみ食い、つまみ食い。

 

場を盛り上げ、爆笑をかっさらっていく人をテーマにしている短編がいくつかあった。

例えば、安西水丸「気づかいのある人とは」は、冗談やユーモアを言う人を絶賛し、まじめな話しかできない人を「話にならない」とこきおろす。うるせーうるせー。生真面目型話ベタの私もユーモアのセンスを切望して仕方がないけれど、口から出るのは紋切り型で遊び心のない言葉ばかり。面白いことを言おうにも、自分では最高潮だったはずの場面で何のリアクションもなく私だけヘラヘラ笑っているという有り様。「ハハハ...」と気づかって笑ってくれる人もいるが、それはそれで申し訳ないという思いに駆られる。同時に、私は偏屈者であるので、誰かが場を盛り上げみんながドッカンドッカン爆笑していると何やら気持ちが冷めてくる。私の感情をうまく揺さぶろうと促してくるそのエネルギーに乗れなくなってくるのだ。そうして、話し手としても聞き手としてもその輪にいられなくなる。ああいうとき、というか大人数での会話ってどうやって楽しむものなのだろうか。

 

何より好きだったのは萩原朔太郎「僕の孤独癖について」だ。いじめられていた小学生にさかのぼり今に至るまでの孤独癖の変遷について振り返る。青年期にはとにかくやろうと思っていたことと反対のことをしてしまう強迫観念があったらしい。

僕の心の中では、固くその人物と握手をし、「私の愛する親友!」と言おうとして居る。然るにその瞬間、不意に例の反対衝動が起って来る。そして逆に、「この馬鹿野郎!」と罵る言葉が、不意に口をついて出て来るのである。

これは、大変だ。朔太郎が言うには、人づきあいが嫌いというわけではないが、これ以外にも色々と変わったところがあり、それを理解されないために人づきあいが煩わしかったという。 ままならなさと、それを率直に書くこの感じがとてつもなく愛くるしい。一方、この文章を書いている時期の朔太郎の孤独癖はなくなってきたとある。最後は希望で締めくくられているのだが、果たして。

www.aozora.gr.jp