シネシネ虫の生態。あるいはそれに侵されている私の生態。

 

 

※この記事は自殺について扱っています。精神的に不安定な時は読まないでください。私もそうですが、メンタルやられてる時に自殺に関する記事を読むと調子が悪化することが多々あるからです。苦しむあなたのことも大切に思っていますが、やっぱりあなたには楽でいてほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どこからともなく「死ね、死ね」という声が聞こえる。それが幻聴のようなものであることに気づいてはいるが、私は逃げ場を失う。胸から喉にかけてに方向のない罪悪感がモヤモヤと溜まっている。息が詰まる。そんな苦しさに頭を抱え耳を塞ぎ、重たい霧を吐き出すかのように「死にたい、死にたい」と呟きながら深夜の街を徘徊する。「死にたい」という言葉は口からどうにも溢れ出てくるのだ。それは堪えきれず漏れ出るものであって、呟いたところでスッキリするわけでもない。ただ苦しさが悶々と溢れてくる。さっき食べたラーメンはもう吐いてしまった。食べきれないだろうことを薄々感じつつ、強迫観念から食べた豚骨ラーメン。320円。俺はこうやって無駄なことに、それも苦しさを増幅させるためばかりに金を使い、そしてどうにも立ち行かなくなっていくのだろう。そう思うと、どうしようもなく辛い。お先真っ暗だ。

食べ物やらサービスやらを消費して、そのために苦しくなるなんて迷惑千万だろう。豊かさを美味しく味わえる存在にこの座を今すぐ譲りたい。そして私はそのままいなくなるんだ。

 


バリエーションは様々だけど、切迫して死に惑わされる日が少なくとも1週間に1度はある。生きているのがくるしい。

 

自殺について物語を書いてからはほんの少しだけ楽になった(もちろん依然として苦しくてたまらないけれど)。内容はどのように死ぬかということだ。死に方はナルシスティックであるほどいい。発作的に苦しいとき、死ぬのは今じゃないと思えるからだ。気持ちが落ち着いている時に、思い入れのある場所でお別れするんだ。そうすれば私も満足だし、親しい人たちが罪悪感に苛まれずに済むだろう。発作的に苦しいとき、「死ぬのは"今"じゃない」と繰り返し言い聞かせて耐え忍んでいる。