(仮定的な)視線をなぞる

ふと、誰かの視線の先を探し続けている自分に気づく。自分の視線を誰かの視線に重ね合わせようとすることこそがそれを捉える数少ない手がかりなのだ。瞳孔に視線の先が映るように、視線の先には瞳孔の奥が映るはず。どこかでそう信じている。あるいは、そのようにするしかなかった。

 

何か思い出があるのなら、思い出すべき何かがあったのなら、こんなことはしなかっただろう。思い出に浸っていたかもしれないし、その人と他の人を比べて現在にうんざりしたり、喜びをもって報告したりするのだろう。そうやって偲んでいたのだろう。

 

そのようなものをもたない私は、視線の先を追いかけた。好きだったもの、見聞きしていたもの、過ごしていた場所、考え方。知っていることは限られるが、いや、限られるからこそ追いかけてしまう。例えば、Perfume。例えば、サカナクション。例えば、『銀河鉄道の夜』。私はこれらが好きであることになっているし、一時期は好きであると自分に言い聞かせ、そう言い聞かせている自分を見失ってあたかも好きであるように無理やり振舞っていた。無理やりだって?実際のところ、それらの一部はもはや好きになっているような気もする。この視線が私のものなのか、それとも追いかけている視線とついに重なって一体化したものなのかは分からない。追いかけていたはずの視線が混線してしまう。私が何なのか分からなくなってくる。これはひとりの人についてだけではない。色んな人の視線の先を追いかけ、追いかけ、追いかけまわすことで私の文化活動は成り立っている。

 

(仮定的な)視線を追いかけ続けるということ。それは自分自身の中にその人を呼び起こそうとすることだ。当然のように呼び起こすことには失敗し続け、追いかけ損ねた視線の残骸は山となって残る。そいつが噴火して飛び出した大量の噴石の一粒が、この俺ってわけさ。…それはさておき、頑張って視線を追いかけるほどに虚無感は大きくなっていく。視線の先を見つめすぎて私が何なのか分からなくなる契機まで経験しつつも、結局はどうしてもその人には辿り着けず、訳の分からないことに時間を費やしていることへの虚無感ばかりが募っていく。噴石の一粒たる私は落下した先で、身動きひとつ取れないまま風化していくのでした。